後で恨むこと上等で、見返りを期待して大きな親切をする人になろう

 

Twitterでよく見る、

 

 

こういう意見はクソだとぼくは思う。

 

なぜか? 

「見返りがなくても納得できる範囲で親切をしなさい」という意見は言い換えるなら、

 

「相手がどれだけ困っていても無理をして親切をするのはやめなさい」と言っているに等しいからだ。

 

これは極めて自己中心的で寂しい考え方だと思う。

 

人間は無理をして親切をするべきだ。

そうすると当然、なんの見返りも返ってこなかった時に恨みや不満が生じる。自分が「親切をしたい」と思ってした行動の結果だから、そういった感情は自己責任として我慢しなければならないのだろうか?

違う。利他心や義務感で「親切をしなければならない」と思ってした行動の結果なのだから、自分に責任は全くない。全ての責任は見返りを返さなかった相手にある。

 

そしてその恨みは、「自分は○○してあげたのにどうして返してくれないのか」と相手にきちんとぶつけるべきだと思う。そうすることで、互いに人を思いやれる優しくて温かい平和な世界が実現する。

 

 

炎上目的で言っていると思われるかもしれないが、ぼくはいたって大真面目だし本気だ。無理をして親切をする人が増えるようにと願い、この記事にぼくの考えを詳述した。

最後まで読めばきっと共感していただけると思うので、ぜひお読みいただきたい。

 

(※この記事では「掛け捨ての親切」という用語が何度も出てくる。

「掛け捨て」とは保険の用語で「掛けたお金が戻ってこないこと」という意味だが、これを親切の話にも転用し、「戻ってくることを期待しない親切」「見返りがなくても納得できる範囲の親切」を表す時に「掛け捨ての親切」と言うことにする。)

 

 

<目次>

・見返りを求めることがなぜ悪とされるのか?

・掛け捨ての親切しかやらない人より見返りを期待する人の方が上等

・「掛け捨て村」と「見返り村」に住み分けよう

・見返りのミスマッチが起きた場合はどうすればいいのか?

・「超掛け捨て村の人」はすごく偉い

・あなたも見返り村の人間になろう

 

 

 

 

 

見返りを求めることがなぜ悪とされるのか?

 

なぜ見返りを求めることが悪とされているかというと、「タチの悪い求め方をする人が多くいるから」だと思う。

 

タチの悪い求め方とは、

 

・不当に大きい見返りを求める(例:ご飯を作ってあげたんだから私を一生愛して)

・相手が求めていないのに勝手に親切をして見返りを求める(例:アドバイスしてあげたんだから今度ボクとデートして欲しいナ)

 

主にこの2種類だと思うが、世の中にはこういうとんでもないことをする人が山ほどいて、そういう人に困らせられた人も無数にいるから最初に紹介したようなツイートがものすごい勢いでバズるのだと思う。

 

だが、一部にタチの悪い人がいるからといって見返りを求める行為全てを悪く言ってはいけない。タチが良い見返りの求め方もあるのではないだろうか?

 

例えばぼくにはこんなエピソードがある。

 

・役者を目指している友達に「人生の集大成の劇を観に来て欲しい」と言われ片道1時間半かけて観に行ったのに一言もお礼を言われなかった。

・その数ヶ月後、ぼくが「人生の集大成の小説を書いたから読んで欲しい。冒頭の5分だけ読んでつまんなかったらやめていいから」と言ったのに全く読んでもらえなかった。

・ぼくは「こっちは大量の時間とお金をかけて劇を観たんだから、無料で5分で読める小説ぐらい読めよ!」と怒った。

 

これはタチの良い見返りの求め方と言えるだろう。相手に求められてした100の親切に対し5の見返りを求めただけなのだから。

 

(「演劇って観に行きたいから観に行くものであって親切じゃないでしょ? 」と思う人もいるかもしれないが、漫画と違って途中でやめることができなければ映画と違ってCMもない「演劇」というのは、「その人が頑張ってるから観に行ってあげよう」という親切心がないと観に行きにくいものなのだ)

 

だからぼくはその役者の友達を堂々と恨んだし思い切り怒りをぶつけた。

 

 

 

 

掛け捨ての親切しかしない人より見返りを期待する人の方が上等

 

だが世の中には、今話したような見返りの求め方もしてはいけないと考える人がいるようだ。妥当な状況と大きさであっても見返りを求めること自体がダメで、見返りを求めたくなるぐらいだったら掛け捨ての親切だけをすればいいらしい。

 

だがそんな生き方は良くないと思う。

掛け捨ての親切しかやらない人は怒らないからいい人だと思われやすいかもしれないが、言い換えれば「『恨んだり落ち込んだりしたくない』というエゴのために親切量を減らす人」ということだろう。そんな自己中心的な人のどこがいいというのか。

 

いや、その人の「掛け捨てできる親切の量」がめちゃくちゃ大きければ問題はない。忙しいなか何度も相談に乗ってあげたりそれほどお金持ちでもないのに100万円を貸してあげたりすることを、見返りを期待せずにできるのであれば問題はない。

 

だが、そんなことができる人は相当少ないと思う。見返りを一切期待しないで大きな親切をするなんて、ほとんど修行僧の域だろう。

 

修行僧レベルの人なら見返りを期待せず大きな親切をすればいいが(もちろんそれは大変立派なことだと思う)、そうでない人は「恨んだり落ち込んだりしたくない」というエゴを捨て、見返りを期待しながら大きな親切をしてほしい。自分を犠牲にして人や世の中を良くしようとしてほしい(もちろん余裕がない時は無理をしなくていい)。

 

「見返りを期待するなんて浅ましいんじゃ……」と思うかもしれないが、大丈夫。大きな親切をした時に見返りを期待してしまう気持ちというのは人間としてごく自然なものだ。なんら恥じる必要はない。

 

というかむしろ、見返りを期待しない人の方が恥ずべきかもしれない。

何故なら「期待しない」というのは言い換えれば、「見くびってる」ということだからだ。「この人は見返りを返さない人かもしれないな」と思うのは相手に失礼ではないだろうか。

(もちろん、相手に余裕がない時は見返りの返済を待つべきだが)

 

 

まとめると、例えば友達から100万円貸してくれと土下座された時、

 

【見返りを期待せず掛け捨ての親切しかしない人】はこう考える。

 

「うーん……100万貸しちゃうのは自分の掛け捨てできるレベルを超えてるから、もし貸したら見返りが欲しくなっちゃうなぁ……。でもこの人は見返りを返すような立派な人だと信用できないな。見返りを返してもらえなかったとき恨んだり落ち込んだりしたら自分が辛いから、貸すのはやめよう」

 

 

対して、【見返りを期待して大きな親切をする人】はこう考える。

 

 

「100万円も貸すのはキツいけど、すごく困ってるみたいだから無理して助けよう。無理したのに何も見返りがなかったら恨んだり落ち込んだりすると思うけど、そのリスクがあっても今目の前で困っているこの人を助けたいし助けなければならない。それにこれだけ大きな親切をするんだから、自分が困った時はきっと助けてくれるだろうし。この人はそういう立派な人だって信じてる」

 

どちらの方が素晴らしい人間だと思うだろうか?

ぼくは断然後者である。前者の人は冷たくて利己的だが、後者の人は温かくて利他的だと思う。

 

 

 

 

「掛け捨て村」と「見返り村」に住み分けよう

 

しかし冷たく利己的に生きる権利はあるので、そういうスタイルで生きていきたいという人がいるならどうしようもない。

しかし不幸は減らしたいのでどうすればいいのか必死で考えてみたところ、それぞれ住み分けをするのがいいのではないかと思った。

 

村に例えるなら、掛け捨ての親切しかやらない人は「掛け捨て村」に、掛け捨て以上の親切をして見返りを求める人は「見返り村」に、それぞれの住み分けてみればいいと思うのだ。

 

両者が混ざると不幸が起きる。

「親切は掛け捨ての範囲でやるもの」と考えている掛け捨て村の人は相手もそのつもりで親切をしていると考えるので、見返り村の人が無理をして親切をしても掛け捨て村の人が見返りを返さない場合が生じる。そうすると見返り村の人は恨みを抱いて不幸になり、掛け捨て村の人もその恨みをぶつけられて不幸になってしまう。

 

しかし住み分ければそういう問題は無くなる。

見返り村の人同士であれば無理して親切をしてもちゃんと見返りを返してもらえるので恨みは生じないし、掛け捨て村の人同士であればそもそも誰も無理をしないのでやはり恨みは生じない。完璧である。

 

 

さて、こうして住み分けた時どちらの村の方が幸福度が高いのだろうか?

ぼくは見返り村の方だと思う。何故なら見返り村の方が親切の総量が圧倒的に多いからだ。たまに見返りのミスマッチが起きて恨みが生じることもあるが、そのマイナスよりも、互いが無理をして大きな親切をすることによるプラスの方が遥かに大きいと思う。

 

一方掛け捨て村は、恨みが一切生じない代わりに親切の総量がめちゃくちゃ少ない、貧しい村になる。マイナスがない代わりにプラスも少ないということだ。

 

 

 

 

見返りのミスマッチが起きた時はどうすればいいのか?

 

先ほど「見返り村ではたまに見返りのミスマッチが起きて恨みが生じる」と書いたが、この記事を読んでいる人が1番気になるのはおそらくそこだろう。きっと「恨みばかり生じる怨念村になるじゃないか!」と思っている筈だ。

 

確かにそういう問題は結構あり得る。

 

まず、交換レートが人によって様々だ。

ぼくは「自分がした親切量の最低5%の見返りが欲しい。その代わりぼくも親切をされたら5%以上の見返りを返す」という5%交換レートで生きているが、見返り村の中には「自分がした親切量の最低80%の見返りが欲しい。その代わり自分も親切をされたら80%以上の見返りを返す」という人もいるだろう。ぼくがそういう人に親切をされたら、「5%返したけどまだ求めるの? え、80%も返さなきゃいけないの? それは多くない?」というようなことが起きる。

 

それでも逆にぼくがその人に親切をした時フェアに80%返してくれるならまだいいが、そうなるとも限らない。親切の量は数値化できない為、親切や見返りの量は完全に言い値になってしまうからだ。

ぼくの中では「ぼくが100の親切をしたのに2しか返してもらってない」という認識でも、相手からは「20の親切をされて16返したからいいでしょ」と言われるかもしれない。

こうなったらぼくは「なんて自分びいきな認識をするやつだ!」と憤慨するだろうが、もしかしたらぼくの認識の方が自分びいきなだけなのかもしれないのだ。正確な認識は誰にもできない。

 

こうやって見返りのミスマッチが起きた時見返り村の人はどうするのかというと、交渉することになる。

 

「ぼくはこういう状況でこういう親切をしたけど君が返してくれたのはこれだけだから、ぼくの親切を100とすると2ぐらいしか返してもらってないと思うんだよね」

「いや、オレは実はあの時こういう状況だったしこういうこともしたから20は返したでしょ」

「ああそっか、そういう事情があったなら20ぐらいになるか。でも君は逆の立場の時80%の見返り求めてたんだから、20%しか返してないんだったらアンフェアじゃない?」

 

という具合に。

いくらなんでも見苦しいと思うかもしれない。だが、こうやって不満をぶつけるのは良いことなのだ。

何故ならそうすることで、相手が「ああ、オレは交換レートを自分びいきにしていたな」と反省できるかもしれないからである。心の中で恨むだけで不満をぶつけないでいたら、その人は自分からも他の人からも嫌われてしまう。相手を想うからこそ、相手が自分の立派な人だと信じているからこそ、不満や恨みをぶつけるべきなのだ。

 

 

ちなみにこの交換レートの話をしていたらフォロワーの人から「後で揉めるぐらいだったら最初から交換レートを提示して欲しい。後から『自分の交換レートはこうだからこれぐらいの見返りを寄越せ』と言うのは詐欺でしょう」と言われた。

 

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マイホームヒーロー  より引用

 

それは本当にその通りなのだが、親切をする前に「後でこれぐらいの見返りを求めるけどいい?」と言うのは流石にカッコ悪すぎる。

そういうのは予め言わず、後からなんとなく伝えたり感じたりするものだ。やむなく口に出してはっきり伝えるのはトラブルが起きた時だけでいい。

 

 

さて、交渉の結果ミスマッチを解消できるならそれでいいが、交渉が決裂した場合、損をした方が相手に対して恨みを抱き、場合によっては絶交することになる。

が、それはもう仕方がない。大きな親切を生むことの方を諦めるわけにはいかないのだから。事故が起きるからといって車を無くすわけにはいかないのと同じである。

 

 

ちなみに交換レートが80%など高すぎる人は、一般的に交換レートの低い普通の見返り村からはやがて追い出されることになる。その人は80%レートの見返り村に引越しをするか、既にそういう村がなければ自分で80%レートの見返り村を作って村長となるしかない。

ぼくは5%レートなのに、友達からは何故か「人に期待するレベルが高すぎるんだよ」と言われウザがられている。意味が分からない。

 

 

 

 

「超掛け捨て村の人」はすごく偉い

 

「見返り村でも悪いことは起きる」という話をしたあとは、「掛け捨て村でも良いことは起きる」という話をしよう。

 

ぼくはずっと掛け捨て村の人をボロクソに言っているが、さっきから言っている「掛け捨て村の人」というのはあくまで、「掛け捨てできる親切の量が少ない人」のことを指している。ぼくは人類のほとんどは掛け捨てできる親切の量が少ないと思っているからだ。

しかし掛け捨て村の中にはどうも、掛け捨てなのにとてつもなく大きな親切をする人がいるらしい。

 

ぼくがTwitterで議論した人の中には、「数十万円貸してくれと言われたから貸したらバックれられたけど、貸すと決めたのは自分だから全く恨みませんでした」みたいなことを言っていたド級の聖人がいた。ぼくには全く理解できない精神だが、どうやらそういう人は実際にいるらしい。

 

 

そういう、「見返りを一切期待しないけどとてつもなく大きな親切ができる人」のことをぼくは「超掛け捨て村の人」と呼んでいる。

ちょっと人間味がなさすぎないかとも少し思ってしまうが、こういう人は本当に素晴らしいし立派だと思う。嫌味ではなく本当に尊敬している。

 

ぼくは超掛け捨て村の人などほとんどいないと思っているが、ぼくの想像が間違っていて超掛け捨て村の人が結構いるのであれば、掛け捨て村の親切の総量もそこまで低くはないのかもしれない。

 

 

 

あなたも見返り村の人間になろう

 

というわけで、それぞれの村の人を素晴らしい順に並べると以下のようになる。

 

①超掛け捨て村の人

②見返り村のタチが良い人

③掛け捨て村の人

④見返り村のタチが悪い人

 

「見返りを求めるな! 見返りがなくても納得できる範囲の親切だけをやれ!」と言う人は一部の④を見て少数の①を推奨しているが、ぼくは④より②の人が圧倒的に多いし、①になるのは大多数の人にとっては不可能だと思う。だから②の「見返り村のタチが良い人」になるのを推奨している。

 

あなたも自己犠牲の精神を持ち、恨みを持つ覚悟で、見返りを期待して掛け捨て以上の親切をしてみよう。そういう人が増えることをぼくは心より願っている。