後で恨むこと上等で、見返りを期待して大きな親切をする人になろう

 

Twitterでよく見る、

 

 

こういう意見はクソだとぼくは思う。

 

なぜか? 

「見返りがなくても納得できる範囲で親切をしなさい」という意見は言い換えるなら、

 

「相手がどれだけ困っていても無理をして親切をするのはやめなさい」と言っているに等しいからだ。

 

これは極めて自己中心的で寂しい考え方だと思う。

 

人間は無理をして親切をするべきだ。

そうすると当然、なんの見返りも返ってこなかった時に恨みや不満が生じる。自分が「親切をしたい」と思ってした行動の結果だから、そういった感情は自己責任として我慢しなければならないのだろうか?

違う。利他心や義務感で「親切をしなければならない」と思ってした行動の結果なのだから、自分に責任は全くない。全ての責任は見返りを返さなかった相手にある。

 

そしてその恨みは、「自分は○○してあげたのにどうして返してくれないのか」と相手にきちんとぶつけるべきだと思う。そうすることで、互いに人を思いやれる優しくて温かい平和な世界が実現する。

 

 

炎上目的で言っていると思われるかもしれないが、ぼくはいたって大真面目だし本気だ。無理をして親切をする人が増えるようにと願い、この記事にぼくの考えを詳述した。

最後まで読めばきっと共感していただけると思うので、ぜひお読みいただきたい。

 

(※この記事では「掛け捨ての親切」という用語が何度も出てくる。

「掛け捨て」とは保険の用語で「掛けたお金が戻ってこないこと」という意味だが、これを親切の話にも転用し、「戻ってくることを期待しない親切」「見返りがなくても納得できる範囲の親切」を表す時に「掛け捨ての親切」と言うことにする。)

 

 

<目次>

・見返りを求めることがなぜ悪とされるのか?

・掛け捨ての親切しかやらない人より見返りを期待する人の方が上等

・「掛け捨て村」と「見返り村」に住み分けよう

・見返りのミスマッチが起きた場合はどうすればいいのか?

・「超掛け捨て村の人」はすごく偉い

・あなたも見返り村の人間になろう

 

 

 

 

 

見返りを求めることがなぜ悪とされるのか?

 

なぜ見返りを求めることが悪とされているかというと、「タチの悪い求め方をする人が多くいるから」だと思う。

 

タチの悪い求め方とは、

 

・不当に大きい見返りを求める(例:ご飯を作ってあげたんだから私を一生愛して)

・相手が求めていないのに勝手に親切をして見返りを求める(例:アドバイスしてあげたんだから今度ボクとデートして欲しいナ)

 

主にこの2種類だと思うが、世の中にはこういうとんでもないことをする人が山ほどいて、そういう人に困らせられた人も無数にいるから最初に紹介したようなツイートがものすごい勢いでバズるのだと思う。

 

だが、一部にタチの悪い人がいるからといって見返りを求める行為全てを悪く言ってはいけない。タチが良い見返りの求め方もあるのではないだろうか?

 

例えばぼくにはこんなエピソードがある。

 

・役者を目指している友達に「人生の集大成の劇を観に来て欲しい」と言われ片道1時間半かけて観に行ったのに一言もお礼を言われなかった。

・その数ヶ月後、ぼくが「人生の集大成の小説を書いたから読んで欲しい。冒頭の5分だけ読んでつまんなかったらやめていいから」と言ったのに全く読んでもらえなかった。

・ぼくは「こっちは大量の時間とお金をかけて劇を観たんだから、無料で5分で読める小説ぐらい読めよ!」と怒った。

 

これはタチの良い見返りの求め方と言えるだろう。相手に求められてした100の親切に対し5の見返りを求めただけなのだから。

 

(「演劇って観に行きたいから観に行くものであって親切じゃないでしょ? 」と思う人もいるかもしれないが、漫画と違って途中でやめることができなければ映画と違ってCMもない「演劇」というのは、「その人が頑張ってるから観に行ってあげよう」という親切心がないと観に行きにくいものなのだ)

 

だからぼくはその役者の友達を堂々と恨んだし思い切り怒りをぶつけた。

 

 

 

 

掛け捨ての親切しかしない人より見返りを期待する人の方が上等

 

だが世の中には、今話したような見返りの求め方もしてはいけないと考える人がいるようだ。妥当な状況と大きさであっても見返りを求めること自体がダメで、見返りを求めたくなるぐらいだったら掛け捨ての親切だけをすればいいらしい。

 

だがそんな生き方は良くないと思う。

掛け捨ての親切しかやらない人は怒らないからいい人だと思われやすいかもしれないが、言い換えれば「『恨んだり落ち込んだりしたくない』というエゴのために親切量を減らす人」ということだろう。そんな自己中心的な人のどこがいいというのか。

 

いや、その人の「掛け捨てできる親切の量」がめちゃくちゃ大きければ問題はない。忙しいなか何度も相談に乗ってあげたりそれほどお金持ちでもないのに100万円を貸してあげたりすることを、見返りを期待せずにできるのであれば問題はない。

 

だが、そんなことができる人は相当少ないと思う。見返りを一切期待しないで大きな親切をするなんて、ほとんど修行僧の域だろう。

 

修行僧レベルの人なら見返りを期待せず大きな親切をすればいいが(もちろんそれは大変立派なことだと思う)、そうでない人は「恨んだり落ち込んだりしたくない」というエゴを捨て、見返りを期待しながら大きな親切をしてほしい。自分を犠牲にして人や世の中を良くしようとしてほしい(もちろん余裕がない時は無理をしなくていい)。

 

「見返りを期待するなんて浅ましいんじゃ……」と思うかもしれないが、大丈夫。大きな親切をした時に見返りを期待してしまう気持ちというのは人間としてごく自然なものだ。なんら恥じる必要はない。

 

というかむしろ、見返りを期待しない人の方が恥ずべきかもしれない。

何故なら「期待しない」というのは言い換えれば、「見くびってる」ということだからだ。「この人は見返りを返さない人かもしれないな」と思うのは相手に失礼ではないだろうか。

(もちろん、相手に余裕がない時は見返りの返済を待つべきだが)

 

 

まとめると、例えば友達から100万円貸してくれと土下座された時、

 

【見返りを期待せず掛け捨ての親切しかしない人】はこう考える。

 

「うーん……100万貸しちゃうのは自分の掛け捨てできるレベルを超えてるから、もし貸したら見返りが欲しくなっちゃうなぁ……。でもこの人は見返りを返すような立派な人だと信用できないな。見返りを返してもらえなかったとき恨んだり落ち込んだりしたら自分が辛いから、貸すのはやめよう」

 

 

対して、【見返りを期待して大きな親切をする人】はこう考える。

 

 

「100万円も貸すのはキツいけど、すごく困ってるみたいだから無理して助けよう。無理したのに何も見返りがなかったら恨んだり落ち込んだりすると思うけど、そのリスクがあっても今目の前で困っているこの人を助けたいし助けなければならない。それにこれだけ大きな親切をするんだから、自分が困った時はきっと助けてくれるだろうし。この人はそういう立派な人だって信じてる」

 

どちらの方が素晴らしい人間だと思うだろうか?

ぼくは断然後者である。前者の人は冷たくて利己的だが、後者の人は温かくて利他的だと思う。

 

 

 

 

「掛け捨て村」と「見返り村」に住み分けよう

 

しかし冷たく利己的に生きる権利はあるので、そういうスタイルで生きていきたいという人がいるならどうしようもない。

しかし不幸は減らしたいのでどうすればいいのか必死で考えてみたところ、それぞれ住み分けをするのがいいのではないかと思った。

 

村に例えるなら、掛け捨ての親切しかやらない人は「掛け捨て村」に、掛け捨て以上の親切をして見返りを求める人は「見返り村」に、それぞれの住み分けてみればいいと思うのだ。

 

両者が混ざると不幸が起きる。

「親切は掛け捨ての範囲でやるもの」と考えている掛け捨て村の人は相手もそのつもりで親切をしていると考えるので、見返り村の人が無理をして親切をしても掛け捨て村の人が見返りを返さない場合が生じる。そうすると見返り村の人は恨みを抱いて不幸になり、掛け捨て村の人もその恨みをぶつけられて不幸になってしまう。

 

しかし住み分ければそういう問題は無くなる。

見返り村の人同士であれば無理して親切をしてもちゃんと見返りを返してもらえるので恨みは生じないし、掛け捨て村の人同士であればそもそも誰も無理をしないのでやはり恨みは生じない。完璧である。

 

 

さて、こうして住み分けた時どちらの村の方が幸福度が高いのだろうか?

ぼくは見返り村の方だと思う。何故なら見返り村の方が親切の総量が圧倒的に多いからだ。たまに見返りのミスマッチが起きて恨みが生じることもあるが、そのマイナスよりも、互いが無理をして大きな親切をすることによるプラスの方が遥かに大きいと思う。

 

一方掛け捨て村は、恨みが一切生じない代わりに親切の総量がめちゃくちゃ少ない、貧しい村になる。マイナスがない代わりにプラスも少ないということだ。

 

 

 

 

見返りのミスマッチが起きた時はどうすればいいのか?

 

先ほど「見返り村ではたまに見返りのミスマッチが起きて恨みが生じる」と書いたが、この記事を読んでいる人が1番気になるのはおそらくそこだろう。きっと「恨みばかり生じる怨念村になるじゃないか!」と思っている筈だ。

 

確かにそういう問題は結構あり得る。

 

まず、交換レートが人によって様々だ。

ぼくは「自分がした親切量の最低5%の見返りが欲しい。その代わりぼくも親切をされたら5%以上の見返りを返す」という5%交換レートで生きているが、見返り村の中には「自分がした親切量の最低80%の見返りが欲しい。その代わり自分も親切をされたら80%以上の見返りを返す」という人もいるだろう。ぼくがそういう人に親切をされたら、「5%返したけどまだ求めるの? え、80%も返さなきゃいけないの? それは多くない?」というようなことが起きる。

 

それでも逆にぼくがその人に親切をした時フェアに80%返してくれるならまだいいが、そうなるとも限らない。親切の量は数値化できない為、親切や見返りの量は完全に言い値になってしまうからだ。

ぼくの中では「ぼくが100の親切をしたのに2しか返してもらってない」という認識でも、相手からは「20の親切をされて16返したからいいでしょ」と言われるかもしれない。

こうなったらぼくは「なんて自分びいきな認識をするやつだ!」と憤慨するだろうが、もしかしたらぼくの認識の方が自分びいきなだけなのかもしれないのだ。正確な認識は誰にもできない。

 

こうやって見返りのミスマッチが起きた時見返り村の人はどうするのかというと、交渉することになる。

 

「ぼくはこういう状況でこういう親切をしたけど君が返してくれたのはこれだけだから、ぼくの親切を100とすると2ぐらいしか返してもらってないと思うんだよね」

「いや、オレは実はあの時こういう状況だったしこういうこともしたから20は返したでしょ」

「ああそっか、そういう事情があったなら20ぐらいになるか。でも君は逆の立場の時80%の見返り求めてたんだから、20%しか返してないんだったらアンフェアじゃない?」

 

という具合に。

いくらなんでも見苦しいと思うかもしれない。だが、こうやって不満をぶつけるのは良いことなのだ。

何故ならそうすることで、相手が「ああ、オレは交換レートを自分びいきにしていたな」と反省できるかもしれないからである。心の中で恨むだけで不満をぶつけないでいたら、その人は自分からも他の人からも嫌われてしまう。相手を想うからこそ、相手が自分の立派な人だと信じているからこそ、不満や恨みをぶつけるべきなのだ。

 

 

ちなみにこの交換レートの話をしていたらフォロワーの人から「後で揉めるぐらいだったら最初から交換レートを提示して欲しい。後から『自分の交換レートはこうだからこれぐらいの見返りを寄越せ』と言うのは詐欺でしょう」と言われた。

 

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マイホームヒーロー  より引用

 

それは本当にその通りなのだが、親切をする前に「後でこれぐらいの見返りを求めるけどいい?」と言うのは流石にカッコ悪すぎる。

そういうのは予め言わず、後からなんとなく伝えたり感じたりするものだ。やむなく口に出してはっきり伝えるのはトラブルが起きた時だけでいい。

 

 

さて、交渉の結果ミスマッチを解消できるならそれでいいが、交渉が決裂した場合、損をした方が相手に対して恨みを抱き、場合によっては絶交することになる。

が、それはもう仕方がない。大きな親切を生むことの方を諦めるわけにはいかないのだから。事故が起きるからといって車を無くすわけにはいかないのと同じである。

 

 

ちなみに交換レートが80%など高すぎる人は、一般的に交換レートの低い普通の見返り村からはやがて追い出されることになる。その人は80%レートの見返り村に引越しをするか、既にそういう村がなければ自分で80%レートの見返り村を作って村長となるしかない。

ぼくは5%レートなのに、友達からは何故か「人に期待するレベルが高すぎるんだよ」と言われウザがられている。意味が分からない。

 

 

 

 

「超掛け捨て村の人」はすごく偉い

 

「見返り村でも悪いことは起きる」という話をしたあとは、「掛け捨て村でも良いことは起きる」という話をしよう。

 

ぼくはずっと掛け捨て村の人をボロクソに言っているが、さっきから言っている「掛け捨て村の人」というのはあくまで、「掛け捨てできる親切の量が少ない人」のことを指している。ぼくは人類のほとんどは掛け捨てできる親切の量が少ないと思っているからだ。

しかし掛け捨て村の中にはどうも、掛け捨てなのにとてつもなく大きな親切をする人がいるらしい。

 

ぼくがTwitterで議論した人の中には、「数十万円貸してくれと言われたから貸したらバックれられたけど、貸すと決めたのは自分だから全く恨みませんでした」みたいなことを言っていたド級の聖人がいた。ぼくには全く理解できない精神だが、どうやらそういう人は実際にいるらしい。

 

 

そういう、「見返りを一切期待しないけどとてつもなく大きな親切ができる人」のことをぼくは「超掛け捨て村の人」と呼んでいる。

ちょっと人間味がなさすぎないかとも少し思ってしまうが、こういう人は本当に素晴らしいし立派だと思う。嫌味ではなく本当に尊敬している。

 

ぼくは超掛け捨て村の人などほとんどいないと思っているが、ぼくの想像が間違っていて超掛け捨て村の人が結構いるのであれば、掛け捨て村の親切の総量もそこまで低くはないのかもしれない。

 

 

 

あなたも見返り村の人間になろう

 

というわけで、それぞれの村の人を素晴らしい順に並べると以下のようになる。

 

①超掛け捨て村の人

②見返り村のタチが良い人

③掛け捨て村の人

④見返り村のタチが悪い人

 

「見返りを求めるな! 見返りがなくても納得できる範囲の親切だけをやれ!」と言う人は一部の④を見て少数の①を推奨しているが、ぼくは④より②の人が圧倒的に多いし、①になるのは大多数の人にとっては不可能だと思う。だから②の「見返り村のタチが良い人」になるのを推奨している。

 

あなたも自己犠牲の精神を持ち、恨みを持つ覚悟で、見返りを期待して掛け捨て以上の親切をしてみよう。そういう人が増えることをぼくは心より願っている。

 

「わからない」と思うための対話 第13回 感想

 

動画はこちら!

 

www.youtube.com

 

 

今回のテーマはこれ!

 

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「Aの望みとBの望みの間でどちらを取るか迷ってしまう」、これが葛藤です。

「食べたい」というのと「痩せて水着が似合うようになりたい」というのは「あちらを取ればこちらが立たず」みたいな関係になってますよね。

 

 

 

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葛藤の渦中にいる人というのはそもそも、自分がどういう望みの間で迷って葛藤に陥っているのかっていう自覚が案外なく、ただぼんやりモヤモヤしてるケースっていうのが多いんです。

で、まず丁寧に話を聞いてあげて、「こういう望みがあるけどその望みを叶えようとするとこういう問題が起きるのね。つまり別の望みがあってその望みが叶わないということが起きちゃうのね」という風に……皆さんであれば話を丁寧に聞いていくと「2つの望みの綱引きになっているのね」というのが見えてきます。

で、「あぁ、これが葛藤なのね」と、そこの2つの望みの間で天秤にかけて綱引き状態になっているということが分かるだけでだいぶ整理されてスッキリしてきます。本当に深い悩みというのはいつでもモヤモヤと“もや”にかかったような姿が見えないものになっています。

 

全然ピンとこない……。「そうか!自分はこの2つの望みの間で綱引き状態になってるのか!スッキリ!」となった経験がこれまでの人生で1度もない。

たぶん、ぼくは自分の悩みはどういう形になっているのかを常に整理して考えているからだろう。

でもぼく以外の人でも、悩みが整理されただけでスッキリするイメージが湧かない。本当にそんな人いるのだろうかというのが率直な疑問だ。

 

 

 

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葛藤というのは普通に生きているとまあ確実にたくさん出てきます。

その葛藤があること自体は全然不思議じゃなくて、生きていれば葛藤の山の中で僕らは生きていくわけです。じゃあなんで葛藤が問題になるのかって言うと、その葛藤を抱え込めなくなった時に問題になります。

例えば小さい子供っていうのは目の前に何か望みがあってもそれが思い通りにならないような時にすぐ泣いたり叫んだり怒ったり色々しちゃうでしょ。あれっていうのは葛藤を抱え込んでおく能力っていうのが低いからなんですよ。で、だんだんと成長して大人度が上がっていくにつれ葛藤を抱え込む量が増えていきます。なかなか思い通りのウハウハではなく、あちらを立てればこちらが立たずでなかなか難しいなと思いながらも、まあぼちぼちやっていきますかという感じでやっていくということができるようになるんですね。これが心の成熟度というものです。

 

日本の精神科医のすごい有名な人で神田橋條治さんという先生がいるんですけど、彼は著作の中で、「葛藤能力の育成というのは心理療法の一つの目的である。精神療法が目指すことというのは葛藤を抱え込める人間を作ることなんだ」という話をしながら、面白い掛け声として「思考は複雑に。行動はシンプルに」というのを挙げているんだよね。

これはどういうことかというと、葛藤っていうのは A の場合は B になるし B の場合は A になるし、こうだしこうだしってこう色々と条件分岐をしながらウーンって深く考え込むわけです。だから葛藤を抱え込むと思考が複雑になるんです。

 

その一方で、実際に行動の A をやったりやらなかったり B をやったりやらなかったりすると結局現場レベルで効果が出ないんです。混乱して色々と問題が起きます。だから頭の中では十分複雑に葛藤を抱えてあれこれ考えて、でも最終的な行動はシンプルに何か一つの方向性で動く……これができるとスムーズにいくということです。

 

で、逆のパターンの頭の中で葛藤を抱え込めない人っていうのはもう、「白か黒か」「全部か無か」みたいな形で葛藤を抱え込めないから思考がシンプルになります。で、思考がシンプルになる代わりに実際に動こうとするといざその場で別の考えが生まれてきたりとか問題が起きたりとかして、あっち行ったりこっち行ったり矛盾するような行動を2つ3つ同時にとっていたりする。そうすると今度は思考はシンプルで行動は複雑になります。

 

だから葛藤をたくさん抱え込んである程度客観的に眺めてコントロールできる人の方が、行動レベルではシンプルに結果が出る行動が取りやすいということですね。

 

ぼくは会社を辞める時にまさに「思考は複雑に、行動はシンプルに」ということをやった。

会社を辞めようか迷っている時、ぼくは周りの信頼できる大人10人ぐらいに相談した。1つ1つの意見を聞く度にきちんと葛藤した結果ぼくの考えは変わらずやはり辞めようと決断したのだが、その時「これは相当強い意志が必要だぞ」と思ったのをよく覚えている。

 

バックレずに大企業を辞めるには、母親と姉と課長と部長の承認を得なければならない。当然猛反対されるだろう。それが終わったら今度は会社の同期や先輩に謝り倒さなければならないのだ。当然すごく残念な顔をされたりヤバいやつだと思われたりするだろう。しかも即日辞めることはできないから、そんな空気の中で数日は過ごさなければならないのだ。

 

ぼくは罪悪感を感じやすい人間なので、これだけの壁を突破するには本当に強い決意をする必要があった。スラムダンク安西先生が言っていた「断固たる決意」というやつだ。

 

ぼくは決めた。

「誰に怒られても泣かれても、絶対にこの意志は変えないぞ」

 

そして実際、母に泣かれても部長に怒られても、「辞めます」の一点張りで通し続け最速で会社を辞めたのである。

 

あれは本当に辛かったが、行動を途中で変えないでよかったと思っている。ぼくのメンタルでは会社を続けることはどうやっても不可能だったからだ。母に泣かれて「じゃあ続けるよ」と言ったところで、どうせ精神状態を悪くし体調を崩し、より多くの人に迷惑をかけ結局退職していたに違いない。

 

そういうわけでぼくは難しい葛藤の問題を処理できる人間なのだが、どうやらこれサイコパスの人の特徴であるらしい。

 

岡田斗司夫は毎日メルマガ(今は配信終了している)で、「サイコパスの特徴は社会性の欠如にあり、例えば『それは離婚すればいいじゃないか』などとズバッと決めることができる。だが普通の人は『そうは言ってもお互い事情がね……』という風に考えてなかなか決断ができない」というようなことを書いていた。

 

 

ぼくに依頼してくれる人も、そういう風に決断ができない人が多い。ぼくがルートを教えて「なるほど、いい方法ですね」とは言うものの、「でも勇気がないんですよね」とか「それをやったら人を傷つけてしまうから」とか言ってなかなか決断しないのだ。

 

rentalhanashiaite.hatenablog.com

 

ぼくには正直、そうやっていつまでも決断しない人のことがよく分からない。勇気が必要だったり罪悪感を感じたりする気持ちはとてもよく分かるが、どこかで選ばないと仕方がないではないか。葛藤し尽くしたら一つシンプルな道を決めて行動しようぜと思ってしまう。

 

 

 

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葛藤処理のパターンなんですけど、これは正直なかなか色々あります。で、そもそも処理をしなきゃいけないわけじゃないんですよ。

 

一応一番理想的な方から行くと、1番の「2つの望みを両方とも実現する」、これはつまり葛藤じゃないですね。この形で解決すればまぁウハウハなんで問題はないです。

で、もしもこの形で解決しようと思った時には2つの望みを両方とも実現するという望みを掲げて、そのルートが分からない「ルート不明」という形になります。で、ソースを探したりとかいう形になるんだけど、そうやってもルートが出てこないから葛藤になるわけです、きっと。



2番は今日のメインなので後で解説します。

 

3番の「覚悟を決めてどちらか一方を選ぶ」は何となく我々が普通にイメージするものですよね。結局 A か B か て迷ったらどっちかを決めるしかないという、まぁシンプルな話です。

 

4番の「両方の望みを少しずつ実現するような妥協案を実行する」、これは折衷案っていうやつね。両方の望みを少しずつ実現するような妥協案、折衷案を実行する。こういうやり方もあるでしょう。

 

最後の5番「ずっと迷い続けて何もしないでおく」、こういうパターンもあります。葛藤で動けない人はこの5番のパターンです。

で、まぁ別に場合によっては5でもいいんだよ。少なくとも話を聞いている側は自分の問題じゃないから5で何の問題もないです、最終的には。

だからあんまり「葛藤処理をせよ!」と迫って焦らせてもいいことはない。相手には相手のペースというものがあるので。まぁやれる援助というものはしますが、基本的にあんまり無理強いして押したりはしないです。

 

なるほど、5つもあるのか。意外と多い。


 

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食べたいという望みとやせたいという望みがあるとするじゃないですか。これのうちのどっちを優先するかっていうのを望みの山登りをする時は決めていきます。

 

 

 

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じゃあ「食べたい」の方にとりあえず×をつけて、「やせたい」の方はそのまま残すことにしましょう。

となると山登りはどう使うかというと、要は「食べたい」の方は無理だけどその一段上の目的だったら実現できるかもしれないよねと。

「食べたい」と「やせたい」の両立は不能だけど、「もしあなたにとって食べる時と食べてない時と比べてどう違うの?」と聞くと、人によって答えは色々だと思うんだけど、例えば「リラックスしたいんです」とか言われたとします。

そしたら「じゃあリラックスできれば食べる以外の方法でもいいんですか?」と聞いて、「そうですね」と言われたら、「やせたい」と「食べる」以外の「リラックスする」という形で少しは葛藤から逃げられるわけですよ。

 

これは素晴らしい解決方法だなと感動した。葛藤は綱引きである以上必ず何か手痛い思いをしなければならないと思っていたが、望みの山登りをしてその手段の目的を叶えることで、何のダメージも負わずに両方の望みを実現できる場合があるなんて! 実に鮮やかな解決方法である。

 

でもよく考えたらぼくも特定の問題に対してはこう考える場合があって、例えばリストカットなどがそうである。「リストカットしたい」という望みを無闇に否定してはいけないが、かと言ってやはりリストカットをし続けるのはやはり不健全だろうしぼくはできればやめさせたいと考えている。

 

なのでいつか「リストカットしたい」「だけど親にはバレたくない」という人が相談に来たら、「リストカットをするのは何のためなの? そうか、自分を痛めつけたいんだね。だったら筋トレをやって痛めつけるのでもいいのかな?」という風に別の手段を提案しようと考えている。

 

(余談だが上記の文章を書いた数日後に「心の安定を図るために叩かれ屋をやりたい」という相談を受けてタイムリーだなと思った)

 

 

 

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逆のパターンもできます。

こんな風にしてただ片方を選ぶだけだとあまりにも悲しいので、選ばない方については手段は無理でも1個上の目的レベルで何か叶えられないかなというのを考えてみるんです。ルートがある時もあるし、ない時もあります。

 



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実際はこの2までできたらもうOKっていうケースが多いです。ここまででだいぶ仕事したんだよ。こっから先はなかなか難しいんだよね。実際解決できない葛藤なんて山ほどある。

3番は好きな方から行ってもいいし、相手に聞いてもいいです。

一応仮にだけど片側に一旦×をつけるっていう動きじゃないですか。だからこれはうまく話を進めないと、「もうこっちを諦めろっていうことですか?」っていう風に反発する人が出てくるわけ。だから「これはあくまでも思考実験であって両方の可能性を考えてみてるんですよ」っていう風に相手に反発されないように持ってこないと逆効果になるので気をつけてください。

 

これは本当に気をつけないといけないだろうな。少しでも反発されてしまったらもう相手に対して影響力を持てなくなってしまう。

 

 

 

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葛藤処理の時にやっぱり重要なのは、とにかく無理に葛藤を解消させようとしなくていいということです。

 

「あなたの中にはこんな葛藤があるんだね」ということを安全にちゃんと2人で共有してそれを眺められるようになるという、そこが最初の一番重要なポイントになります。

 

「困ったね、ちょっと様子を見ようかな」って「様子を見られる」というのも大事な能力だよね。性急な判断をせずに。

で、様子を見ているとどんどん状況が悪化していくという場面も時にはあって、そういう時には最後、決断をするしかないんですよ。

 

最初に書いた通りぼくはまだピンと来てなくて、「葛藤はなるべく解消させた方がいいだろ。『こんな葛藤があるんだね』って言うだけだったら相手は大して満足しないだろ」と思っているが、「最初は」確かに葛藤を整理して一緒に見つめるということが大事だと思う。

 

 

 

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第13回が最後の講義だったので、この記事を以て「わからない」と思うための対話の感想記事は終了である。

 

厳密に言えば第14回の実践編が本当の最終回だが、そちらでは講義は無くタイトル通り実践しかしていないため新たに記事は書かない。興味がある方はこちらの動画をご覧いただきたい。

 

www.youtube.com

 

どんな感じだったか結論だけ簡単に説明すると、ぼくは今まで学んだ技術を使いまくって劇的に成長した姿を見せられたと思っていたが、自分の頭を使って自分の思いついたルートを伝えることばかりしており相手の頭を使わせようとはあまりしていなかった。その為めんたねさんからは以下のような評価を受けた。

 

 

ぼくは元々「相手のことは相手に聞いても分からない場合がほとんどなので、こちらが頭を使って相手にない視点からのアドバイスをズバッとすべき」と考えている人間で、その考えは今でも大体の場合において正しいと思っているのだが、せっかくの機会なのでぼくとは真逆のめんたねさんスタイルを1度身につけておくことが今回オンラインワークショップを受けるにあたっての目標だった。両方のスタイルを身につけられれば幅が広がるし偏らなくて済むからだ。

 

なのでそのスタイルがあまり身につかなかったことは、残念だし勿体無いなぁと感じている。

 

だが同時に、人生は長いので今はそれでもいいかとも思っている。

ぼくは「これは覚えておきたい、考えたい」と思ったことはいつまでも覚えて何度も何度も折にふれ考える人間なので、これから先の人生で、「あ、そういえば『わからない』と思うための対話でこんなことを習ったな」と思い出すことが数え切れないほどあるだろう(その時には当然この記事を参照する。そのために一生懸命書いてきたのだ)。そうして少しずつめんたねさんのスタイルを身につけられるようになればいい。

 

本当に学びの多いワークだった。これだけ素晴らしいものを無料で受けさせてくださり、めんたねさんには非常に感謝している。どうもありがとうございました。

 

「わからない」と思うための対話 第12回 感想

 

動画はこちらから!

 

www.youtube.com

 

今回のテーマはこれ!

 

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今日は行動とモチベーションのサポートということで、実際に前回の内容に沿ってリソースを探すっていうことをやった後に、相手の行動プランを聞き出してそれを実際に行動につなげていくとかモチベーションをサポートしていくとか、そういうことをやっていこうと思います。

久保君もお待ちかね、「実行に移させる」という話をしましょう。

 

久保)12回目にしてやっとですね(笑)

 

そうなんだよ。人に行動させるというのはよっぽどその前に十分しっかり上手に話を聞いて、関係を作って影響力も確保して相手の問題のポイントも把握して、で、「このタイミングでこの攻め所でこうやって言ったら動くんじゃないか」ということを、それも質問の形で間接的に動かすんだから。このぐらい用意周到にやるわけですよ。

アドバイスっていうのは安直なんだよ。すごく安直なアドバイスで動けばいいんだけど、動かないケースが多いんだよ、実際。だから安直なアドバイスで動かないケースのためにこういうやり方があるわけだ。

 

【人に行動させるというのはよっぽどその前に十分しっかり上手に話を聞いて、関係を作って影響力も確保して相手の問題のポイントも把握して、で、「このタイミングでこの攻め所でこうやって言ったら動くんじゃないか」ということを、それも質問の形で間接的に動かす】

 

か……すごい。これまでのわからないと思うための対話の集大成みたいなセリフだ。振り返ればこんなに色々なことを学んできたんだなと驚いてしまった。

 

 

 

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これはフランス料理のフルコースみたいなもんです。だから全部ビタッと1から8までやれよっていう話じゃないです。場合によっては一つや二つ省いたり一個や二個だけ使ったりというのもよくやります。

 

 

 

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実は僕は「この問いを立てる」っていう行為が個人的にも大好きで、すごい役に立つんですよ。なんでかって言うと、人間の頭っていうのは問いを立てるとその問いの答えを出そうと自動的に動いてくれるから。

例えば初詣ってあるでしょ? 初詣の時になんかこうお祈りするじゃん。

あの行為に僕は意味があると思っていて、神様がいなくてもそうやって年の初めに今年一年の願いとしてバズりたいというのを掲げて無意識がどうやったらバズるのかっていうのをずっと探してくれるんです。

頭でウンウンと考えるのは意識的にものを考えている時なんだけど、無意識っていうのはぼんやりしているときに実は気が付くとフラフラフラッとそれについて考えてくれたりする。で、その無意識の思考の方がいい仕事をしたりするんだよ。意識で考えたって出てこないからアイデアが湧いてこないわけなので。

 

問いを立てるコツとしては、疑問文を作ること。語尾が「?」になるようにすることですね。

意識で一定時間頑張って考える必要はあります。

意識でしばらくそうやって考えておくと、無意識も「まあこれは重要な問題で解かなきゃいけない問いなんだな」と認識します。

そうするとなんかトイレ入ってる時とかお風呂入ってる時とか気を抜いてぼんやりしてる時に、「これこうした方がいいんじゃないか」とかいう風にアイデアがふっと浮かんできたりするわけです。

 

そうやってちょっと自分が考えることから離れて他の何かに囚われたりぼんやりしたりしてる時にトランス状態や催眠状態に人が入りやすくて、そういう時に無意識が活性化してるんです。意識じゃなくて。

だからいつもの意識的なものの考え方に縛られずに自由な発想が出てきやすいのでアイデアが湧きやすい。

質問する時にも同じで、相手に問いを立ててもらったら相手の無意識が自然とそれに向けて答えを探して動き始めるから、その先のリソースを探すとかそういう時にもそちらの方向に引っ張っていってくれるわけですよ。だからこれは相手の無意識の舵取りをするというか、方向づけをするために僕はよくやったりします。

 

いい話だ。「問いを立てていれば無意識が答えを探してくれる」というのはぼくも非常によく実感している。

高校時代の演劇部で脚本を徹夜で書いていた時どうしても浮かばなかったアイディアが15分仮眠をとった後にパッと思いついたり、「死んだ後何が残るのか」という問いについて毎日考えていたら大学の帰り道で急に答えが分かったり。

 

岡田斗司夫が何かの動画で「ぼくはいつも色々な問いを立てているんだけど、それは無数の鍋を同時にコトコトさせているイメージ」というようなことを言っていたが、ぼくもまさにそんなイメージを持っている。

 

 

 

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問いを立てる時はこのスライドに書いてあることに注意してください。



 

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いきなり初っ端これをやっても出ないわけだよね。ルートが見つからないから悩みになっているのに「どんなルートがありますか?」って言っても出るわけがないじゃん。

だから望みに至るルートを質問するっていうのはこれまでに十分引っ張り起こしてきた後なんだよ。

リソースを探して問いを立てて色々と相手の頭をグルグルと引っ掻き回して変化を起こした後に改めて望みに至るルートを質問すると出てくるかもしれない。

 

「他にもありませんか?」って聞くと案外出てきます。で、2個目3個目に出てきたものの方が有効でパワーがあったりします。1個目2個目はすでに考えていたことがあったりする理由でも3個目ぐらいからネタ切れが起きて、でも聞かれてるからウンウンと考えた時に新しいアイデアが放り出されたりするからです。歯磨き粉のチューブを絞らなきゃいけない。

ここはある意味負荷をかける質問だけど良い負荷なんだよ。感覚としては筋トレで追い込んでる感じね。

 

「他にもありませんか?」と聞くのはなかなか勇気が要るなと思った。ぼくが今まで依頼を受けてきた人には「考えるの面倒だから答え教えてくれ」というスタンスの人が多かったような印象を受けていて、そういう人に「他にもありませんか?」と聞きまくると「自分が思いつかないからってこっちに負荷をかけさせないでよ」と思われそうな気がする。結構な信頼関係がないと難しいと思う。



 

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「ルートも分かりました。あとは実行すればいいんですが、いざ実行するってなるとなんとなく気が重くて手がつかないです」ってことがよくあるわけです、人間は。

なんでかって言うと、その時に考えてたルートっていうのが曖昧で漠然としてると、具体的に何からどう手をつけたらいいかわからないっていうことが起こるからです。

だからとりあえず始めの一歩を聞くわけ。具体的に。「もし一番最初に手をつけるとしたら何をやりますか?」って。

 

レポートとエピソードの話があったでしょ。エピソードっていうのはなるべく具体的に映像化できるレベルでっていうやつ。

それと同じで、もう目の前にありありとそれを実行している自分が思い描けてイメージが持てる物っていうのは行動しやすいんですよ。でもイメージが持てないものっていうのは行動する時に考えなきゃいけないことが色々あるんですよ。

 

なるべくこっちが予め質問して始めの一歩を踏み出させるんです。一歩進めば景色が変わるから二歩目は踏みやすいんだよ。

 

これは物も同じで、物理学やってた人は、動摩擦係数と静摩擦係数って習ったでしょ?

 

止まってる状態で押すときが一番パワーが要って「静摩擦係数」っていうのが大きいんですよ。

で、動き始めると動きやすくなる。「動摩擦係数」って言うんだけど。

人も同じで、あることについて動き始めるとまあ動くんだけど、最初の一歩っていうのは重いので、ちょっと手厚くサポートしてやらんといかんということね。

 

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最初の一歩目なのに、すごくでかくて大変なことを言う人がいるわけです。でもはじめの一歩はなるべく小さめ、控えめがいい。「やります」って言ってやらないと関係が切れちゃうんだよね 。

「やります」って言ったことは「やりました!」「やれました!」っていう話になった方が関係がいいわけですよ。だから実際にやってもらえることを「やります」と言ってもらわないといけない。行動できない人ほど大体欲張るから。

 

これと全く同じことがドラゴン桜にも書かれていた。

 

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引用元↓

 

 

 

さて、なぜ第一歩目が踏み出しにくいのか、脳科学の観点から説明してみよう。

 

人間には「恒常性」という、「常に同じであろうとする性質」がある。例えば暑くなったら汗をかいて体温を下げたり寒い時に震えて体温を上げたりするのは恒常性のおかげだ。

 

これは肉体だけでなく精神にも作用し、例えば「もういやだ!明日会社やめる!」と決意した人でも一晩寝たら結構スッキリして翌朝普通に出勤できるようになるのも恒常性のおかげである。

 

このように恒常性は人間にとって非常に良い作用を果たすが、残念ながら悪いようにも作用してしまう。

 

例えば「夢に向かって生きよう!」みたいな講演を聴いて「うおお!俺も頑張るぞ!!今日から毎日2時間勉強して1ヶ月後にはこうなって1年後には夢を叶えるぜ!!!」と興奮して計画表を書いたのに、翌朝起きたら「あれ?昨日のやる気どこ行った?なんならいつもよりやる気ないぞ……」となってしまったことはないだろうか?

 

これは、「頑張って夢を叶える」ということは「変化」なので、脳が「こいつ変化しようとしてるぞ!危ない!いつもの状態に戻さないと!」と判断し恒常性を働かせてしまうからなのだ。

 

意識的には「良いこと」であっても、「変化すること」は無意識的には「悪いこと」なのである。だから人は変われないのだ。

 

ではどうすればいいかというと、大きく変化しようとするから恒常性が大きく働き一気に戻されてしまうので、小さく変化しようとすればいいのだと思う。脳に気づかれないぐらい小さな一歩を踏み出して少し休んでからまた一歩、また休んでからもう一歩という風にすれば、恒常性の影響を受けにくいはずだ。

 

 

ところで何故ぼくがこんな専門的な脳科学の知識を持っているかというと、高校生の頃に読んだこの本に全部書いてあったからである。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B00GMATYVS/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_lnrUFbZXBYQHB

 

この本には「セルフイメージ」「スコトーマ」という、やる気を出すのに欠かせない2つの概念についても詳しく分かりやすく書かれており大変オススメである。人生で役に立った本ベスト3に入るかもしれないぐらい素晴らしい本だ。

 

ちなみにこの本では恒常性によってやる気を失わないために「恒常性がバグって機能しなくなるくらいのでかい夢を持つ」という方法が推奨されている。「小さく変化する」というのはぼく独自の考えなのでそこはご理解いただきたい。

 

 

さて、そういうわけで高校生の時から恒常性という人間の性質を知っていたぼくは、相談者にはなるべく小さくて簡単な第一歩を伝えるようにしているし、ぼく自身も小さな第一歩を踏むようにしている。

例えばこのわからないと思うための対話の感想記事を書くのも毎回ものすごく億劫なので、「まずは10分だけ文字起こしする」というのを第一歩に設定している。それさえやればあとは割と気楽に取りかかれる。

小説執筆も同様だった。最初はいきなり冒頭のシーンを丁寧に書こうとしてしまったのだが、書き始めてすぐめちゃくちゃ難しいことに気がついた。よく考えたら冒頭のシーンは登場人物の特徴やら時期やらを説明しなければならなく難しい上に日常シーンだからつまらないという、最も書くのが大変な部分だったのだ。
だから「1番書きたいクライマックスシーンのセリフのみを雑に書く」というのを第一歩にしてみたら驚くほどすんなりノリノリで書けた。あれは我ながら良い方法だったと思う。

 

  

ちなみにぼくは自分を律してやらなければいけないこと以外でも最初の一歩目は小さくしたいと考えていて、例えばバイトなんかも初日は「行って帰ってくるだけで100点だから頑張らないようにしよう」と思っている。なのに初日からフルスロットルで研修とかをされると「初日なんだからもっとゆるくしてよ!2日目は頑張るから!」と思ってしまう。

まぁバイトとしては良くないことなんだろうけど、最初からフルスロットルというのは単に気が重いだけでなく精神的に悪いのだ。

 

引越しや転職など、人は新たな環境に行くだけで無意識のストレスをかなり感じる生き物なのだ。何十年も一人暮らしをしていた千原ジュニアは大好きな女性と結婚し同棲したあとしばらく無意識のストレスで体調をめちゃくちゃ崩したり片耳が聴こえなくなっていたらしい。

 

何かに挑戦するときも必ず無意識のストレスを大きく感じているので、最初は出来るだけ頑張らないことが肝心だと思う。

 

 

 

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行動を実際にいざ起こせたとしても、割とみんなすぐにモチベーションが下がって辞めてしまうということが多いんだよね。途中で挫折してしまうということがよくある。

じゃあなんでそういうことが起こるのかっていうと、周りにモチベーションを高めてくれてる人っていうのがなかなかいないからなんですよ。

そうすると自分で自分のモチベーションを高めないといけないから、話を聞いてる間に相手の中に自分で自分のモチベーションを高めるようなシステムを組み込んでおきたいわけ。

じゃあどうするかっていうことなんだけど、「上手くいってるぞ!」って思ってる時は割と人ってモチベーションが上がるんだよね。

「上手くいかない、全然ダメだ、効果がない」って思うとモチベーションが下がっていっちゃう。だから一つ目の質問をします。

 

この「小さい」っていうのがポイントです。大きい変化だったら誰でも分かるんだけど、大きい変化はなかなか起きないからモチベーションが下がっちゃう。

じゃあどうすればいいかというと、実際に起こる可能性が十分にあるような小さな変化を拾い上げて、「小さい変化だけど前に進んでるな」「ちゃんと効果が出てるな」という風に認識できると、ちょっと気持ちが上がって「よし、じゃあもうちょっと続けようかな」という気持ちになれる。だからなるべく小さく小さくさせたいんだよ、ここは。

 

このサインはなるべくたくさん持っておいた方が自分でモチベーションを上げるチャンスが広がるのでなるべくたくさん出したいし、大きすぎる変化のサインは大体みんな出すので、「もっと小さいサインはない?」と煽ってもっともっと小さくさせていく。

そうやって小さくしておくと、「じゃあこれも確かに前に進んでるって事になるな」っていう風に、実際にそれが自分の身に起きた時にそこでのやり取りが頭の中にどっか残ってるので、ちょっと前に進んでるなと思えるようになる。こんな風にして相手のモチベーションをサポートするということです。

 

 

 

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ワークは上記の通りです。

 

 

「第一歩目は小さくする」ということは分かっていたけど、「小さな変化のサインを聞く」というのは全く発想になかった。確かにサインというものを決めておけば自分でモチベーションを上げてもらいやすくなるなと勉強になった。

ただ、「周りにモチベーションを高めてくれてる人っていうのがなかなかいない」「そうすると自分で自分のモチベーションを高めないといけない」というのはやっぱりキツいよなぁと思う。

 

「聞く技術」としては「小さな変化のサインを聞く」以上のものはないと思うのだが、「悩みを解決させる方法」としてはこれは相当弱い。

何故ならどれだけ自分で自分のモチベーションを高めやすくしたところで、ほとんどの人は1人では変われないからだ。

 

『夢をかなえるゾウ』の主人公の男性が変われたのは、ガネーシャが主人公の家に住み込み毎日課題を出してそれを強制的に行わせ、感想を聞いた上でフィードバックをするということを繰り返したからである。

 

ガネーシャのような存在がいないぼくたち一般の人間は、夢をかなえるゾウを読んだところで変われない。だから自己啓発書は多くの人にとってそれ単体では無力だとぼくは思っている。

 

相談業は自己啓発書よりかは強い。めんたねさんもおっしゃっているように「これをやります」と人に約束することができるからだ。長期的に根気よく相談し続ければモチベーションの維持はできるだろう。

 

だが、それもやはり弱いと思う。何故なら関わる時間が少なすぎるからだ。

ぼくの所属していた演劇部ではぼくを含めた何人もの人が劇的に成長したが、それは超強力な顧問の先生が何千時間という膨大な時間をかけて指導してくれたからである。あの顧問の先生でも例えば月1回1時間のカウンセリングでは人を変えることはなかなか難しかったのではないかと思う。

 

だからぼくは、レンタル話し相手をやってはいるが、この活動で人を根本的に変えられるとは実は思っていないのだ。

 

学校を創って先生として長期的に膨大な時間をかけなければ、人を変えることはまずできない。だからぼくは依頼を受けながらも、結構な無力感を感じている。

 

 

依頼を検討される方へ

 

依頼を検討されるにあたって知っていただきたいことをまとめました!

 

(「ご検討」と書いた方がいいかなとだいぶ悩んだのですが、なんとなく変な気がして「検討」と書きました。実際には「ご検討」という気持ちです!)

 

 

 

・どんな依頼を受けてくれるの?

 

「こういう依頼でなければダメ」というのは特にありませんが、ぼくが受けたいと思った依頼だけお受けします。

 

「興味がないから」「難しくて分からないから」「その話は聞きたくない/したくないから」「あなたが嫌いだから」など、様々な理由で自分本位にお断りする場合があります。

 

専門的な知識や資格はありませんし、興味のない話を聞くと露骨につまらなそうな感じを出してしまいますし、嫌だと思ったら途中で切り上げることもあります。これら全てのことにご了承の上ご依頼ください。

 

  

 

 

・料金は?

 

30分あたり500円です。

30分未満の時間は切り捨てになります。59分なら500円、3時間59分なら3500円といった具合です。

なので、初回に限らず29分までは無料です!

 

直接お会いする場合は、(かかる場合のみ)交通費や飲食代をいただきます。

 

後払いなので普通にバックれることができます!(笑)

その場合、訴えたりはしませんが晒してネタにさせていただきます!

 

また、お話した結果ご満足いただけなければ、「満足できなかったのでお金は払いません」と正直にお伝えください。ぼくの力不足と受け止めて無料にさせていただきます。この場合はもちろん晒したりしませんのでご安心ください。

 

 

 

・お金のやりとりの方法は?

 

できれば、慣れてる銀行振込かLINE Payか手渡しがいいです。(ぼくが持っているのは三菱UFJ銀行の口座です)

もし他の方法がよければ、ご希望をお伝えくだされば検討させていただきます。

 

 

 

・税金かかんないの? 開業届は出してる?

 

ぶっちゃけよく分かってないのですが、とりあえず売り上げが1000万円を超えるまでは消費税の納税義務は発生しないらしいので、550円とか1100円とかにはならないです。

また開業届は今は出していませんが、年度末の確定申告の時までに出せばいいらしいので、その時までになんとかします。

 

 

 

・依頼したいと思ったらどうすればいいの?

 

TwitterのDMかこの記事の1番下に書いてある連絡先に、「依頼をしたい」という旨をお伝えください!

電話でのやりとりをご希望の場合は、相談して日時を決めましょう!

テキストでのやりとりをご希望の場合は時間のある時に返信させていただきます(やりとりにかかった時間をぼくからお伝えし、その時間分の料金をお支払いただくようお願いします)

 


 
・ぼくが絶対にしないこと
  
・個人情報や秘密を漏らすこと 
・出会いや交際を狙う言動 
・宗教勧誘 
・悪いビジネスの勧誘 
・依頼後のこちらからの過度な連絡


・基本スタンス
  
・勝手なアドバイスをしない 
・決めつけない 
・遮らずに傾聴する
  
求められた時や許可を得た時、その他どうしてもと判断した時以外は、基本的にこのスタンスを守ります。 

 


  
・やり取りの公開について

 
お話した方とのやり取りをいくつか公開していますが、許可を頂いていますし、個人が特定されそうな情報はできる限り隠しています。 
  
「私とのやり取りは公開しないで欲しい」と言って頂いたらもちろんその通りにしますので、ご安心ください! 
  

(過度に失礼や悪質だとぼくが判断した場合は、DMなどを本人の了承なく公開することがあります)



 

・連絡先

  
電話番号:080-3218-3748 
LINE ID:boku1111 
  
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どなたからのご連絡でも大歓迎です! 

ご連絡お待ちしております!!

 

人生最大の転機 ー「根拠のない自信」が折れた話ー

 

 

これまで、ぼくの人生には大きな転機が3回あった。

 

1回目は、根拠のない自信が折れた高校2年の9月。

2回目は、将来の夢が決まった高校3年の2月。

3回目は、大学中退をやめることにした大学2年の3月。

 

どれもぼくの人生を劇的に変えた、革命的と言ってもいいぐらいの大きな転機だった。

 

3回目の転機の話はすでにブログに書いた。

2回目の転機の話も近い内に書こうと思っている。

 

今回は、1回目の話をしたいと思う。

自信が折れたと言うと悪いことのようだが、この体験がぼくという人間を劇的に改善させた。

 

今のぼくは全てこの体験を元に作られているから、3回の内でこれが最も大きな転機だったと言えるだろう。

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

ぼくは小さい時から、全能感溢れる子供だった。

根拠なく自分は何でもできると思っていて、将来は地球温暖化を止めるとか1万円札の肖像画に載るとか本気で考えていた。

 

特に何かきっかけがあった訳ではない。気がついたらそういう人間になっていたのだ。

 

これは間違いなく、バングラデシュ人の父の遺伝子の影響である。父も全くそういう人間で、自分は誰よりも偉いとか国を救うんだとか本気で考え公言する人間だった。

 

実際にそれだけの能力が伴っているなら、そういう大口を叩いてもいいだろう。だが父は残念ながら、極めて無能な人間だった。

 

自分は誰かに雇われるような安い人間じゃないと言って会社を建てては潰し、また建てては潰しを繰り返して借金まみれになり、生活費すら家に入れない。

その上反省も学習も一切せず、自分を騙したあの人が悪いとか次は必ず上手くやれるとか言っては失敗を繰り返し、ついに高校2年の8月(ちょうどこの転機の話とほぼ同じ時期だ)に母の強い要望で離婚させられたのに、未だに少しも謙虚になっていないという恐ろしい人間なのである。

 

そんな父の遺伝子を色濃く受け継いでしまったぼくは、父と全く同じ精神と能力を持つ人間として育った。つまり、「実際には極めて能力が低いのに全能感に溢れている人間」である。

 

それでも小さい内から色々なことに挑戦していれば、早い内に「あれ? やっぱりぼくって無能じゃね?」と気づくと思うのだが、ぼくはずっとそういう気づきを得なかった。何の挑戦もしてこなかったからだ。

 

小学校は普通に友達とゲームをしているだけだったし、中学校は持病が悪くて部活に入らなかったので、アニメをひたすら見るだけの怠惰な毎日を送っていた。

 

そんな自堕落な日々を送っていることに空虚さや焦りを感じてはいたものの、自信だけは全く失っていなかった。

 

「今は何もやっていないから何の成果も出せていないだけだ。何かやりたいことを見つけて頑張れば、ぼくは誰よりもできる人間なんだ」

 

そう信じて疑わなかった。

挑戦しなければ失敗もない。自分の能力が未知数なのだから、できると思い込むのは簡単だった。

 

 

 

そんなぼくは、高校に入学してすぐ演劇部に入った。

「気まぐれに体験入部してみたら先輩方がキラキラしていて楽しそうだったから」というごく普通の動機で入ったこの部活が、ぼくの人生を全く違うものにした。

 

活動し始めてすぐ、ぼくは大きな違和感を感じた。

部員のみんなと全然仲良くなれないのだ。みんないい人たちなのにぼくとの間に明らかに分厚い壁があり、全く馴染めなかった。

 

それまでの人間関係ではそんなことはなかったらしばらく訳が分からなかったのだが、ある時やっとその理由に気がついた。

 

演劇部は、「目的意識のある集団」だったからだ。

 

ぼくはそれまで、一緒にテレビゲームやカードゲームをするだけのゆるい友達付き合いしかしてこなかった。そういう人たちとは、ただ明るくてちょっと面白いところさえあれば簡単に仲良くなれる。

 

だけど、目的意識のある集団はそうではない。

公演という目的を達成するためには、ただゲームをするだけよりずっと深いレベルで人間関係を構築する必要があるのだ。互いに空気を読み、気遣いをし、引くべき時には引き、怒るべき時には怒らなければならない。

 

ぼくが入った演劇部は年間300日ぐらい練習があるかなりしっかりとしたところだったから、求められるレベルは低くなかった。

 

母からやや過保護に甘く育てられ、小学校ではゲームだけをし、中学校でも帰宅部だったぼくは、演劇部という目的意識を持った集団でどう振る舞うべきなのか全く分かっていなかった。

 

小学生が高校のしっかりした部活に入ってしまったようなものだと考えてもらえれば、どんな感じか割と想像がつくのではないかと思う。

 

 

空気を読まずに行動する、ナチュラルに人を傷つける言動をする、引くべきところで前に出る……。大抵の黒歴史を笑って話せるぼくでも思い出すのが嫌になるぐらい、本当に酷いものだった。

 

それだけでも超ウザいのに、途中から全国大会に行こうなどと少年漫画の読みすぎにもほどがある夢を語り出したりして、もう本当に部員全員から引かれていた。

 

それでもぼくがメキメキと成長していくならまだ良かったのだが、それすらなかった。

 

顧問の先生は優しくも厳しかったから毎日のように叱ってくれていたし、演劇についても色々なことを教えてもらっていたにも関わらず、ぼくは約1年半、人間的にも演劇的にも全くと言っていいほど成長しなかった。

 

何故か?

ぼくが、自信満々だったからである。

 

いや、人間力や演技に自信があったという訳ではない。

空気読めてないなとかスベッたなとかいうことは流石に分かるし、演技も上手いとは全然思っていなかった。

 

だが、根本的なところに絶対的な自信があったのだ。

 

「今は色々なことが噛み合わなくてうまくいってないけど、ぼくは本当はめちゃくちゃできるヤツなんだ。だいたいぼくは脚本と監督を担当したら最高の劇を創ってみせるってずっと言ってるのに、その役割を任せてくれない顧問の先生が悪いんだ!」

 

典型的な、「俺はまだ本気を出していないだけ」状態である。

 

凝り固まった自信のせいで自分を疑うことをせず、他人の言葉を全て跳ね除けていた。だから成長しなかったのである。

 

 

 

 

そんなぼくに、高校2年の夏に転機が訪れた。

念願の脚本と監督を任せられたのである。

 

それらを任せられたのは意外にも、部活ではなくクラスの方だった。

 

9月にある文化祭の出し物で、ぼくのクラスはぼくが提案した演劇をやることになったのだ。脚本は投票制だったがぼくのプロットが通り(この時から物語を書くのはそこそこ得意だった)、その流れで監督も任せられることになったのだ。

 

「やっと脚本家と監督になれた!」とぼくは大喜びし、リーダーシップを発揮し素晴らしい劇を創っていくイメージを思い浮かべてニンマリした。

 

だが、そのイメージ通りにできるわけがなかった。そんな重い役割を担うのは初めてなのだから当然である。

 

脚本の完成を遅らせる、そのことを「忙しかったからしょうがないじゃん」と言い訳する、まだセリフを一行も書いていない役者を休みの日になんとなく呼び出して一日無駄にさせる、一生懸命仕事をしてくれてる人に対して「そんなチマチマとした仕事やらないで」と言う、何をどれぐらい買えばいいのか全く計算せずに大道具の材料を買いに行く、監督の代役を誰にもお願いせずに仕事を放り投げて部活に行く……。

 

あらゆる面において最悪の監督だった。本当に何もできていなかった。

 

そのせいで、クラスメイトのヘイトが恐ろしいほど溜まった。それまではクラスでは特に嫌われていなかったのにほぼ全員から嫌われ、呆れられ、怒られた。平和な風土の学校だったのでいじめられたりすることはなかったが、クラス中のヘイトを一身に感じる日々が何週間も続いた。

 

クラスメイトのみんなのおかげで文化祭当日には奇跡的にちゃんと形になった劇をお客さんに届けることができ、評判もけっこう良かったけど、ぼくの心はもうズタボロになった。

 

この体験を通して、ぼくは生まれて初めてこう悟ったのである。

 

 

 

「ぼくって、“できないヤツ”だったんだ」

 

 

 

そう思わざるを得なかった。望んだ役職を与えられ存分に能力を振る舞える日々を過ごしたのに、結果があの有様だったのだから。「本当はめちゃくちゃできるヤツなんだ」と言える逃げ道はもうどこにもなかった。

 

遺伝子レベルでぼくのことをずっと支えていた「自信」という超強力な柱が、ポッキリと音を立てて折れた。

 

 

 

 

 

それからぼくは、ガラリと変わった。

演劇部での振る舞いが全く違うものになったのである。

 

全国大会に行きたいなんて思わなくなり、信じられないほど丸くなった。

そして何より、顧問の先生の言葉がちゃんと響くようになったのだ。

 

先生は日々色々なことでぼくを叱ってくださったけど、突き詰めれば全ての教えは、

 

 

「人の気持ちを考えろ」

 

 

というものだった。

 

ぼくはずっとこの言葉の意味が分からなかった。「ぼくは人にめちゃくちゃ優しく接しているのにどうしてそんなことを言われなきゃいけないんだろう?」と不服に感じていた。

 

でも、自信が折れたおかげでもう一歩深く考えてみようと思えるようになった。

 

「もしかしたら先生の言っていることは正しいんじゃないか? ぼくの優しさは間違っているんじゃないか? 」

 

そう何日も延々と考え、ある日、ぼくはついに分かった。

 

 

「そうか! 相手の立場に立たなきゃいけないんだ!!」

 

 

そう、ぼくはいつも「自分が良いと思ったこと」をしていただけで、「相手がどう思うか」は一切考えていなかったのだ。

それではどれだけ優しくしているつもりでも、嫌われたり怒られたりするのは当然だった。 

 

 

ぼくはそれから、あることを自分に課した。

 

「言動をする前に、必ず一歩立ち止まる」ことにしたのだ。

 

何か言いたいことがあってもいきなり言わず、「この言い方だと相手は傷つくんじゃないかな?」「今このタイミングで自分が発言したら、場の流れが止まっちゃうんじゃないかな?」と必ず立ち止まって考えるようにしたのだ。

 

これは、野球のバッターがイメージに近いと思う。

 

これまではボールを投げられたら何も考えずに全部バットを振っていたので、空振りしたりボールをとんでもない方向に打ったりしてばかりだった。

 

だが、バットを振る前にボールをよく見極めてみることにしたのだ。

 

しばらくはミットに入るまでの一瞬の間にどんなボールかすぐに見極めることができなかったので、多くのボールを見送った。口数は半減した。

 

だけど自分に投げられたボールをよく見たり、人がバッターボックスに立っている時の様子をよく観察したりするのを続けていると、少しずつ会話というものが分かってきた。

 

「このボールを打とうとしたら、たぶん空振りしたりファールになったりするな」

「このボールは得意なコースだから思い切り打って大丈夫だな」

「このボールは思い切り打てるだろうけど、チーム全体のためにはバントしておいた方がいいな」

 

しばらくは成績が変わらなかったが、その習慣を辛抱強く続けていたら、いつの間にか少し打率が上がっている自分に気がついた。

 

「あ、あれ…? ヒットが打てたぞ…??」

 

この喜びはなんとも言えないものだった。

これまでずーっとほぼ三振かファールしかできていなかったのに、ボールがバットの芯に当たる感覚を肌で感じることができたのである。これはとてつもない快感だった。

 

 

 

また、「思考」の面においても変化が訪れた。

 

たぶん同じ頃だったと思うのだけど、同期の男子部員がぼくにこう言ったのである。

 

 

「人間、考えないと駄目だと思うんだよね。考えないと人間じゃないと思う」 

 

 

衝撃のセリフだった。

「考えないと駄目」なんて、ぼくはそれまで考えたこともなかったのだ。

 

その同期の男子部員はめちゃくちゃ仕事ができて人望も厚い、ぼくとは対照的な人間だったのだが、どうして同い年なのにこんなに大きな差があるのだといつも疑問に思っていた。

 

だがようやくその疑問が解けたのである。

 

 

「そうか、ぼくとこいつとの差の秘密は、『考えているかどうか』にあったのか!」

 

 

だとしたら恐ろしいことである。たった一点の違いで人生の明暗が分かれてしまうと言っても過言ではないのだから。

 

ぼくは思った。「考えないと!!」

 

それからぼくは常に、「考えろ」と自分に言い聞かせるようにした。

 

 

「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」……

 

 

会話をする時も、気遣いをする時も、演技をする時も、言い過ぎなぐらい自分に言い聞かせ続けた。

するとちょっとずつ、「あれ、久保にしては考えたじゃん」みたいな反応をもらえることが増えてきた。

 

 

 

「一歩立ち止まって相手の立場に立つ」

「考える」

 

 

この2つを徹底的に意識し続けた結果、演劇部の人たちのぼくに対する反応が激変した。

 

1111日の誕生日に、それまでずっとぼくに無関心だった同期の男子部員からチョッパーのぬいぐるみをもらった(いつも配信の時に映っているアレだ)。

 

クリスマス公演でぼくが演じたピエロの役のパフォーマンスをみんなから面白がってもらえた。

 

冬公演では誰よりも演技が上手いと言われた。

 

春公演で先生が怒って帰ってしまった時の反省会で、「誰よりも久保くんが的を射た意見を言うから」と司会を任された。

 

 

 

この間、文化祭が終わってからたったの半年間である。 

自分でも信じられないほどの変化だった。

 

あるとき神藤ゆずかさん(「全然1番の友達じゃないわ笑」と言った人だ)に「演劇部内で1番成長したのは久保くんだと思う」と言ってもらったことがある。

1番かどうかは分からないけど、ぼくは確かにとてつもない成長をすることができたと思っている。

 

そんな奇跡が起きた理由は間違いなく、文化祭で自信がポッキリと折れたからだ。

あの時から全てが好転した。

 

根拠のない自信が折れたから、自分を疑うことができ、人の言葉をいたずらに跳ね除けず、素直に聞けるようになったのだ。

文化祭で脚本家と監督を担当してズタボロになる体験をしていなかったら、あの成長はなかっただろう。もしかしたら今でも、文化祭前と同じような人間のままだったかもしれない。

 

自信が折れて、本当に良かった。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーー

 

 

 

これで1回目の転機の話は終わりだが、この話を聞いて今、誰もがこう思っているだろう。

 

 

「いや、お前今また自信満々になってるし人の気持ち全然考えられてないやんけ。それが気になって全く話に集中できなかったわ」

 

 

と。

 

 

ぼくは正直、このツッコミに対してなんと答えたらいいか分からない。

 

 

この記事でぼくは次のように書いた。

 

rentalhanashiaite.hatenablog.com

 

だけど新たに意識することが増えた時、明確な「対比」が生まれた。

 大半の人ができていないことが、自分はできている。

このことを客観的に感じるようになり、ぼくは生まれて初めて、「自分は話を聞くのが上手いんだ」と自覚した。

これが、ぼくが「自分は話を聞くのが上手い」と思うようになった経緯と根拠である。

(「客観的に感じるようになり」と言ったが、もちろん完全に客観的になれてはいない。どんなに俯瞰しているつもりでも結局は主観の域を出ないし、相手から好意的な評価を受けることもあったがお世辞である可能性が当然あるからである。だが少なくとも、「なるべく客観的であろう」という意識は常に持つようにしていた)

いつか別のところで詳しく話すと思うが、「話すのが上手い」というのにも、「優しい」というのにも、「論理的思考力が高い」というのにも、全て同じような経緯と根拠がある。

(中略)

ぼくは高校2年生の時までは、正しくない自信を持っていた。比較する対象がいなかったり無視したりしていたから、根拠なく自分はできる人間なのだと思い込んでいた(コミュニケーション力に関してとかではなく、ただ漠然と『自分はできるヤツだ』と思っていた)

だけど、今は違う。

ぼくは今話したような「対比」を通し、都度改善を繰り返し、少しずつ自信を積み上げていったのだ。

改善を繰り返してきた自分と改善を怠っているように見える他者を冷静に対比できているから、ぼくは「自分は優秀だ」と自信を持って言えるのだ。

 

そう、ぼくは「自信を持つこと」が悪いと思っているわけではない。「根拠のない自信」だけを持つことは良くないと思っているだけなのだ。

 

ぼくはあの文化祭の後から約9年間、対比と改善を猛烈に繰り返してきた。そうして「根拠のある自信」を積み重ねていったから、自信満々になっていたのだ。

 

(もちろんだからと言って、自分を疑うことをサボっているわけではない。「ぼくはなぜ誰からも認められなかったのか」というタイトルのブログ記事にも書いたように、「自信を持つこと」と「自分を疑うこと」は両立できる)

 

 

ぼくはこのワークショップ第2回の感想記事を読んだみなさんから、

 

「なるほど!レン話さんがやたら自信を持っていたのはそういう理由だったんですね!納得です!実際すごく上手に話を聞けてるし、自信を持っていていいと思います!!」

 

と言われると思っていたのだが、実際にはそういう声は全く上がってこなかった。

そのせいで「え、ええ……? ぼくの自信はやっぱり間違ってるってことなの……?」とかなり困惑し落ち込んだ。

 

そしたらその数日後に受けたワークショップの第3回で、ぼくの話の聞き方が急に褒められた。ぼくとしては全然自信のなかったところだったのだが、なぜか多くの人に高く評価してもらったのだ。

さらにその後も、自分ではむしろ酷い出来だと思っていたワークショップの感想記事が褒められ、参加させてもらった選択的夫婦別姓についての対話の様子も褒められ……。

 

もう訳が分からない。何に自信を持てばいいのか全く分からなくなっている。

 

 

人の気持ちを考えることに関してもそうだ。

 

レンタル話し相手の依頼者との会話など、1対1で話す時は相手は大抵気持ち良さそうな反応をしてくれる。怒らせたり「それは失礼じゃない?」と言われたりすることは滅多にない(もちろん、「1対1だと心の中でそう思っても面と向かって言いにくい」という要素は多分に考慮しなければならないが)。

この前の依頼者なんて「どうしてそんなに人の気持ちが分かるんですか? 心理学か何かを学ばれたんですか?」と言ってくれたほどだ。

 

だが、複数の人と話す場面になると途端におかしくなる。

ぼくはTwitterツイキャスで息をするように失礼な発言を連発しているらしく、今のウォッチャーのみなさんからは「ナチュラルに失礼」と数えきれないほど言われている。

これはTwitterに限らず、高校の部活の人たちと会った時やお気に入りのバーでも似たような現象が起きている。

 

ぼくとしては複数の人と話す時も1対1で話す時と同じようにボールを良く見てからバットを振っているつもりなのだけど、なぜこうなってしまうのか全然分からない。

 

 

そういうわけで「何故か」という理由はさっぱり分からないのだが、1つだけはっきりしていることがある。

 

少なくとも今のぼくは、自信を持ったりそのことを公言したりすると、ろくなことがないということだ。悪いことしか起きない。

 

なのでしばらくは、ナチュラルに失礼な冗談とともに自信を持つことも封印しようと思う。そうすれば、思わぬところで新たな気づきや発見を得られるかもしれない。

 

たぶん、「自信がある」とか「自信がない」とか自分で決めてしまうのが問題なのだ。

 

ぼくが今受けているワークショップのタイトル、「『わからない』と思うための対話」のように、「分からない」状態でしばらく過ごしてみようと思う。

 

エッセイ 『コンビニ』

 

ぼくは大学3年生の時にエッセイ(筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文のことを書いて「随筆春秋」という雑誌のコンクールに応募したことがあるのですが、眠らせておくのはもったいないのでその原稿をこのブログに載せてみます(一応電話で随筆春秋さんに確認したら、ネットで公開しても問題ないそうです)。
 
ぼくは大きくなってからは本気で文章を書く経験をしていなかったのですが、なぜ急にエッセイを書いて応募しようと思ったかと言うと、「自分の得意なこと」を知りたかったからです。
 
ぼくは学校を創るための資金と人脈を得るために学生団体やインターンシップなど色んなことに挑戦したのですが、どれも結果が出ず、大学3年の時に途方に暮れていました。
 
「何をやっても成功しない。というかまず努力ができない。ぼくは一生成功できないのか……?」
 
と悩んでいたのですが、ある時ふと、ダメだった理由が分かりました。
 
「そうか! 好きで得意なことをやっていなかったからだ!」
 
よく考えたら、学生団体やインターンシップは「やらなければならないこと」だったり「これだったら成功するかも」と打算的に考えていたことだったりしたんですね。
好きじゃないから頑張れない。得意じゃないから成果が出ない。こんな当たり前のことにずっと気づいていなかったのです。
 
次に「じゃあ好きで得意なことはなんだろう?」と考えてみたのですが、よく分かりませんでした。
幼い頃から自分に強烈な自信を持っているくせに、「賢い」とか「優しい」とかいう漠然とした要素の自信しかなく、「じゃあ何ができるの?」と言われたらいつも何も言えてなかったんですよね。履歴書の「特技」の欄を埋めるのに毎回苦労していました。
 
「『これがぼくの特技です!』って自信を持って言える『スキル』が欲しいなぁ」と思ったもののその探し方が分からず悩んでいた時、久しぶりに超有名自己啓発小説『夢をかなえるゾウ』を読んでみたら、ドンピシャのセリフがありました。
 
 
「人生を劇的に変える1番手っ取り早い方法はな、応募することや。自分の才能が他人に判断されるような状況に身を置いてみるということやな。
落選して自分の才能がないって判断されるのは怖いねんけど、それでも可能性を感じるところにどんどん応募したらえねん。そこでもし才能認められたら、人生なんてあっちゅう間に変わってまうで」
 
 
「なるほど応募か! 応募して評価されたら、それは間違いなく自分の得意なことだ!」
 
何に応募しようかと色々と考えた結果、「文章」の力が試されるものがいいんじゃないかなと思いました。
 
「よく考えてみれば、小学生の時から作文や詩で賞を取ることはけっこう多かった気がする。卒業文集とかも本気でのめり込んで書いてたし、ぼくにとって文章を書くことは『好きで得意なこと』なのかもしれない」
 
色々調べて、「随筆春秋」という雑誌のエッセイコンクールに応募してみることにしました。締め切りや発表が近かったからという単純な理由です。
 
で、書いて応募してみたらなんと、入選してしまいました。
最優秀賞や優秀賞はもちろん無理でしたが、応募作品約400作品中、上位約20作品の「入選」に選ばれたのです。
 
 

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「うおー!! 文章の勉強なんて一切してないのにいきなりこの快挙は天才じゃね!?」
 
と例によって調子に乗った後、
 
「やっぱり『文章を書くこと』は『好きで得意なこと』なんだ! これでこれからは『文章を書くことが得意です』って堂々と言えるぞ! 文章で名を上げよう!!」
 
と思い、ぼくは大学最後の挑戦として本格的な長編小説の執筆に取り組むことになったのでした(これは大失敗に終わります)。
 
 
前置きがめちゃくちゃ長くなりました。本文並みに長かったかもしれません。
 
そんな経緯で書いたエッセイ、『コンビニ』です。ぜひご覧ください。
 
(当たり前ですが色々と今よりだいぶ拙いです)
 
 
〜〜〜〜〜〜
 
 
 からあげクンのレギュラーが床に散乱した。
「すみません」謝りながら急いで拾い上げる。
「久保くん、また?大丈夫?」
 店長が若干苛立ちながら言った。この二時間で三回目なのだから無理もない。
 床に付着した油をペーパータオルで拭き取りながら、自分のあまりの不甲斐なさに泣きそうだった。コンビニの仕事がこれほど大変だなんて、想像もしていなかった。
 
 大学一年生の十月、貯金が底をつきかけた僕は人生で初めてアルバイトをする必要に差し迫られた。迷わずコンビニを選んだが、ほぼ突っ立ってレジをしているだけでいいのだろうなと高をくくっていた。
 ところが実際に働いてみると、コンビニの仕事は想像の百倍忙しかった。ポイントカードのスキャンや商品の袋詰め、揚げ物の製造・廃棄、ゴミ捨て、トイレ掃除、消耗品の補充、郵送、納品……。あまりにも多くの仕事に目が回りそうだった。
 たかが買い物をするだけの場所の裏側にこれほど大量の仕事があるなんて。初めてのシフトのあとには人生最大の疲労が全身を襲っていた。
 アルバイトが……“労働”というものがこれほど過酷なものだったとは。まさに身に染みて理解し、身の程を恥じた。
 
 僕は小さいときから、労働というものを軽視していた。教師や経営者のような、個性を発揮でき人や世の中にも強い影響を与えられる職業には憧れていたけれど、個性が発揮されなさそうで、ただ静かに社会を支えている職業はつまらないものと思っていた。
 飲食店員、駅員、工事現場作業員、清掃員……これらの仕事は、いわゆる“社会の歯車”でしかないと考えていたのだ。そうした職業に従事している人々を町中で見るたび、「この人たちは自分の人生の大半をこんなつまらないことに捧げていて幸せなんだろうか」などと疑問に思っていた。
 それは当然、コンビニの店員に対しても同じであった。ほぼ毎日利用している家から一番近いコンビニは、朝はいつも六十歳くらいの痩せたおじいさんがレジをしている。レジ打ちも袋詰めも驚くほど遅く、あまり生気を感じない人だった。このコンビニで買い物をする度に、「社会の歯車をさせられているなんて情けない人だなあ」等と思っていた。
 
 そして僕は高校二年生の文化祭で、とんでもない過ちを犯してしまう。
 クラスの出し物で演劇をやることになり、僕の脚本が採用された。将来宇宙飛行士になりたいと思っていた主人公が魔法で十年後の未来へ行き、宇宙飛行士になっていない自分を見て愕然とするが、現在に戻ったあと奮起し夢を叶えるというストーリーだ。
 だが問題だったのは、十年後の主人公の職業だった。コンビニの店員だったのだ。宇宙ステーションで働いているはずの未来の自分がコンビニで働いているのを見た主人公は「なんでコンビニなんかで働いてるんだよ!ふざけるな!」と、未来の自分に恫喝するのだ。そして未来の主人公も「俺は努力しなかったからコンビニの店員にしかなれなかったんだ」と返してしまう。
 その演劇の上演を観た母が真っ先に言ったことは、「あんた、コンビニの店員に失礼じゃない」だった。
「もしお客さんの中にコンビニで働いている人がいたらどう思うの」と言われ、愚かなことをしてしまったことに初めて気がついた。
 だが、コンビニの店員を見下していたのは真実であった。
 
 そんな経験から、僕はアルバイト先にコンビニを選んだのだ。あのとき脚本で「どうしてそんなところなんかで働くんだ」と馬鹿にしたそのコンビニで働いてみたらどうなるだろうかと思ったのだ。
そして、結果がこのざまだった。「そんなところ」で働いた僕はものの見事に鼻っ柱をへし折られてしまった。
おい、高校生の時の自分よ。お前はそこでたったの五時間働くだけでボロボロになるんだぞ!
 それに、コンビニがなければお前は困るんじゃないのか。消費ができるのは生産してくれる人がいるからだろう。生産する為にどれだけの苦労があるかも知らずに店員を馬鹿にするなんて、お前はいったい何様なんだ?どんな思い上がりだ?
 
 翌朝、どん底の気分で家を出た。朝食を買うため、いつも通り自宅前のコンビニに寄る。
商品を手に取りレジに並んだ。いつものあのおじいさんがレジをしている。首を伸ばして手元を見てみたが、やはり捌くのがかなり遅い。
 並んでいる間、商品棚を眺めてみた。あれ、意外としっかり前陳ができているんだ。古い日付の商品が最初に手にとられるような配置がきちんと守られているし、ヨーグルトやプリンはラベルが真正面に来るよう整然と並べられていた。
 さらに店内をよく見渡すと、ピカピカに掃除された床や手書きのセール品告知ボード、高く積まれている納品ボックスが目に入った。途端、目から涙が出てきた。
 これまでは全く意識もしていなかったけれど、こんなに色々な手間や工夫があったのか。何一つ見えていなかった。あんな弱々しそうなおじいさんがどうやって納品の重い箱を運んでいるのだろう。毎日毎日、いったい朝何時から準備をしているのだろう。どれだけの膨大な時間、このお店を守り続けてきたのだろう。
 レジが進み自分の番になった。パンを二つとヨーグルトを一つ、カウンターに置く。
「いらっしゃいませ」
 おじいさんは弱々しい声で言い、ゆっくりとレジ袋を取り出し詰め始めた。ヨーグルト用のスプーンもきちんとつけてくれる。
 ああ、どうしよう。今日まで何百回と買い物をしているけど、一度も会話をしたことなんかない。毎回「いらっしゃいませ」って言ってくれていたのに、それに反応したことすらない。いつも素っ気なくお金だけ払っていた。
「あ、あと、からあげクンのレギュラー、ひとつお願いします」
咄嗟に言った。かしこまりましたと言って、レジを打つ。
「四四九円になります」
 おじいさんがしっかりと手を消毒し、からあげクンを手に取り丁寧に蓋をし爪楊枝をつけてくれる間、僕は心の中で激しい葛藤をしていた。言おうか、それとも言わずに店を出ようか。心臓がバクバクする。
 五百円玉を渡し、お釣りと品物を手渡された。ありがとうございましたと言ってお辞儀をしてくれる。
 こちらも軽く会釈をし、やはり言わずに店を出ようとした。後ろを振り返ると二人のお客さんが並んでいる。一歩を踏み出そうとして、衝動が僕を踏み留めた。
「あ、あの、いつもご苦労様です。ありがとうございます」
 目を見ては言えなかった。おそるおそる顔をあげると、おじいさんがキョトンとした顔で僕の顔を見つめていた。そして2秒くらいしてから、
「いつもご来店、ありがとうございます」
 そう言って、くしゃっと笑った。初めて見る笑顔だった。

 

「わからない」と思うための対話 第1回 感想

 

2020年7月からぼくに興味を持ってくださっているめんたねさん(@mentane)という方が、ある時こんなツイートをされた。

 

 

狙いはこうだそうだ。

 

 

お誘いを受けてぼくはもちろん快諾した。

ぼくにとってメリットしかないし、メリット云々の計算を除いてもこういう勉強には興味があり、ずっとやってみたいと思っていたからだ。

 

毎週金曜日、計13回受講させていただき、受講後は毎回感想記事を書いていた。

 

以下が第1回目の感想である。

 

(第2回目以降の感想記事の読み方は記事末尾に記載してある)

 

 

 

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動画はこちら! 

 

www.youtube.com

 

 

ちなみに資料の転載許可はめんたねさんから頂いている。

 

また、

 

 こういう風に 

 

小さく薄い文字で書かれているのはめんたねさんの言葉の引用である。

 

 

 

--------------

 

 

 

まず「やられた!」と思った

 

ワークショップが始まる前、資料のこのページを見て「やられた!」と思った。

 

f:id:Rentalhanashiaite:20200720234119p:plain なぜか? 「実践とフィードバック」が組み込まれていたからだ。

 

ぼくは教育は基本的には「教える」割合を少なくして「実践とフィードバックをさせる」割合が多いといいと思っているんだけど、まさにそういうワークショップだったから「やられた! ぼくが先にやって日本を驚かせたかった!」と悔しく思った。 

 

でもめんたねさんに言わせれば、「君が世界を知らないだけでこんなことをやってる人はたくさんいるよw」とのことらしい(笑)

早く世界を知りたい。

 

 

 

理解できたことを相手に伝える必要がある

 

f:id:Rentalhanashiaite:20200721182340p:plain

この資料で書かれていることはかなりの衝撃だった。

 

ぼくも話し相手を自称しているくらいだからコミュニケーションのルールはいくつも持っていて、このことも考えていなくはなかったけど、「伝えた方がよりいいよなぁ」ぐらいのぼんやりとした意識しか持っていなかった。

 

でも考えてみればこれは「必ずそうしなければならない」というぐらい重要なことであり、しっかりと言語化して絶対的なルールとして設定していなかった自分の愚かさに驚いた。

 

でもぼくは「人はごく簡単なことが分からない生き物だ」という哲学を持っているから、同時に「まぁこんなこともあるか」とも思った。今気づけたのはむしろラッキーだと言えるだろう。

 

 

 

聞きそびれたらまた聞き返せばいい

 

案外相手が言ったことをそのままストンと受けとるって難しくて、ちょっと違う意味に理解したりとかポコポコ抜けたりとか、そういうのって起こるんですよね。

そうするとどうすればいいかっていうと、また聞けばいいんだよね。

「さっきここ聞いた気がするんだけどちょっと分かんなくなっちゃったからまた聞きたいんだけど」って言えば、大体みんな親切に教えてくれるので。

誤解すると関係が切れるんですよ。「話が通じてない!」みたいな。

なので、「聞き直す」っていうのはこの先のワークショップでどんどんやってもらって構いません。

  

これも言われてみれば当たり前のことなのに分かっていなかった。

 

ぼくが1番多いパターンは、「相手の話について考えすぎて聞きそびれてしまう」やつ。

 

(この悩みの解決策はこうかな。それともこうかな……あれ、今この人なんて言ってたっけ?)みたいなことがよくある。

 

そういう時、「実際にはそういう理由でも、聞き返したら『真面目に聞いてなかったのね。不誠実な人だな』って思われちゃうんだろうな。まぁ聞き返さなくてもなんとか理解できるだろ」と思って聞き返さないことが多いんだけど、実際にはなんとかならないことの方がずっと多い。

 

2割ぐらいはなんとかなるんだけど、そんな危ない橋は渡らない方がいいに決まっている。聞き返すことこそ誠実なんだから、これからは遠慮せずに聞き返そうと思った。

 

 

 

相手はその話のどこが1番重要なポイントだと感じながら話しているのか推測を立て、なおかつそれが推測だと認識しておく

 

f:id:Rentalhanashiaite:20200724010630p:plain

 

この話のどこが1番の重要ポイントなのかとかというのが微妙にずれると、「話自体は理解されてるんだけどなんか理解されてないな」みたいな気持ちになったりするんですよ。 

なので話を聞きながら、「この話のどこがこの人は1番重要だと思ってるのかな」っていうことを考えながら話を聞いてみると、聞き方が少し変わりますね。

でもこれ、残念ながら分からないんです。人の頭の中だから。

なので、そうやって相手の頭の中について推測は立てるけど、それが推測だということを持っておくんです。

そうしないと「こうなんだな」と思った時にそれが100%にピッて振り切っちゃって、もう「そういう話」っていう風に聞いちゃいますから。

推測をしてなおかつそれは推測であると認識しておく。そうすると、追加で質問したいことが出てくるんです。

「自分は5割ぐらいこうかなと思うんだけど、本当にそうなのか確認しないと分かんないな」っていう気持ちになってくると、聞きたくなるから聞くでしょ。そこに興味が生まれるわけですよ。ただぼんやり聞いてるとあんまりこういう種類の興味って生まれないですね。

 

また自己認識がバグってると思われるかもしれないけど、これはぼくは割と意識できているんじゃないかと思う(前も言ったように「ちゃんとできているか」は分からない)。

 

ぼくはいつもそういうアンテナを立てながら話を聞き、相手の話が終わったら「つまりこういうことですかね?」と推測を話すということをかなり意識的にしている。

 

この前連投した動画でも、ぼくがそうしたことで依頼者の方に「そうですそうです!まさにそういうことです!」と喜んでもらえた場面があったから、客観的な評価から考えてもある程度はできていると思っていいのかもしれない。

 

でもその回数が少ないのが問題で、例えば20分ずーっと話を聞いてやっと推測を話すということをしていたんだけど、これでは相手は20分ずっと不安だし、推測が間違っている場合長い間修正できない。

 

だからこれからはもっとこまめに推測を話そうと思った。

 

 

 

単語をなるべく言い換えない

 

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この娘さんからすると、自分の父親っていうのは「パパ」なんですよ。そこで「お父様」とかいう風に別の言葉を当てると、自分の言語じゃなくて他人の言語で言葉を聞いて、それを一度自分の言語に翻訳し直さなきゃいけないわけですよね。これって少し負荷がかかる。

一方で子供と同じ言葉で喋れば、子供はその人のことを味方であると思うんですね。

でも違う言葉遣いをすると、何か別の人種、別の人間であるという違いが認識されやすいし、処理をするためには負荷がかかってしまう。賢い人はそれでも変換して理解できるんだけど。

なので、話す人に話すとか考えるとかいうことにメインの力を注いでもらいたいような時には、なるべく相手の言葉遣いに合わせてこっちも会話してあげるーー相手の言葉、相手の言語で喋ってあげるという技術が重要になってきます。

で、そのための1番シンプルな方法というのが、「単語をなるべく言い換えない」。相手が使った単語は相手が使った通りで使うということです。

 

もちろん全部そうした方がいいわけではないんだけど、基本的には同じ言葉を使った方がいいという話に納得した。

 

ワークショップの直前にも同じ話を聞いて「そうしよう!」と思ったのに早速ミスってしまった。癖を直すのは相当大変だけど、都度意識しまくって必ず直す。

 

 

 

話を聞くのは難しい

 

北村さんもケンタさんもおっしゃってたけど、このワークショップの1番の感想はとにかくこれ。

 

物心ついた時からずーっとやっている「聞く」という行為の難しさにどうして今さら気づいたのかというと、「これまでは要約して説明する必要に迫られていなかったから」だと思う。

 

効果的な読書方法に「読み終わった後に内容を要約して誰かに話すつもりで読む」というものがあるんだけど、これをやってみると、「あれ!? 300ページの本を読んだのに内容ほとんど覚えてない!」ということに気が付いて愕然とする。

 

つまりぼくたちはどれだけいい加減に本を読んでいるかということなんだけど、会話も同じなんだということがわかった。

 

聞いた話を十分に理解できていないのに、それを要約して伝えていないから、「理解できていない」ということが理解できていないのだ。

 

普段の会話は実はそういう状況だったんだ、ということを嫌というほど突きつけられる衝撃的なワークショップだった。

 

 

 

学んだ技術を日常で使うのは難しい

 

ワークを学ぶと結構多くの人が、真面目に取り組みすぎるが故に日常生活でもワーク通りに喋り始めるんですよ。異様なんだよ(笑) 

ワークで色々学んだルールとかやり方っていうのは補助輪みたいなものなんです。いつまでも大人になっても補助輪付きの自転車には乗らないよねっていう話であって。

補助やサポートっていうのは、それを使って何かコツを掴むことができれば最後は捨ててしまって構わない。

だから、「マニュアルは最後には必ず捨てるものなのだ」っていうことは頭の中に入れておいてください。

まずは言われた通り試しにやってみる。そうしてやってみた時に感じたり気づいたりしたことを持って帰ってもらえれば、ワークショップで学んだ意味があるかなと思います。

 

これはたぶん思った以上に難しいんじゃないかと思う。

 

まずモチベーションを保ち続けるのが難しい。その時は「よしやるぞ!」って思っても、数日経ったら忘れたり面倒になったりして学んだことを意識しなくなってしまう人は多い気がする。

 

そして意識していても上手に技術を使うのが難しい。

ワークでは「これはこういうことなんですね? 以上です」みたいな感じで思い切り露骨にやっていたけど(笑)、これを自然にやるのはそんなに簡単なことじゃなさそう。間髪入れずに喋りまくったり怒りながら喋ったり色々な人がいるし。

 

でも、難しくても頑張らないといけないなと思う。

ぼくはレンタル話し相手をやっているからというのもあるけど、どういう人生を送るにしたって、コミュニケーションは一生取り続けるものだからだ。絶対に諦めてはいけない。

 

2回目以降も頑張って貪欲に学んでいこうと思う。

 

 

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第2回目以降の感想記事ははてなブログのぼくのサブアカウントである以下のブログから読める。

 

wakaranaitoomoutamenotaiwa.hatenadiary.jp

 

『レンタル話し相手のブログ』の記事が「わからない」と思うための対話の感想記事だらけになってしまうのも何か違うよなと思いこのような形をとった。

 

毎週力を入れて書いたしどの記事も本当に勉強になると思うので、興味がある方はぜひご覧いただきたい。