「わからない」と思うための対話 第4回 感想

 

動画はこちらから!

 

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今回のテーマはこれ!

 

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否定形で望みを語るとマイナスの方向に引っ張られる

 

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無意識には、肯定形と否定形の区別ができないっていうところがあるんです。

「緑色のサンタクロースを想像しないでください」って言われても、人は緑色のサンタクロースを想像してしまうんですよね。

この「想像しないで」という言葉の「しない」っていう否定の部分はあまり関係しないんです、無意識には。「緑色のサンタクロース」っていう単語が出た瞬間に頭の中には思い浮かんでしまう。


初めて聞く話だった。そんなバカなと思いたいけど、無意識の力というのは侮れない。

意識と無意識のバランスを表現するのに、この氷山の絵がよく使われる。

 

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(イラストACからのダウンロード)

 

ぼくたちは普段海上(意識)の部分しか見えておらずそれが全てだと思っているが、実は海中には海上よりも遥かに大きい無意識が存在しているのだ。

 

どれだけ意志を強く持ったところでこの無意識には絶対に勝てないので、無意識がどう感じるのかということを学習し自覚しておくことがすごく大事らしい。

 

だから、「そんなバカな。意識的には肯定形と否定形を区別できてるから大丈夫だよ」と簡単に考えたらいけないのだ。

 

 

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ビルの間に掛けた、幅1メートル、長さ30メートルの板の上を歩くのを想像してください。風が吹いてなくても、結構な確率で落ちる人が出るんですよね、たぶん。

 

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なんでかって言うと、やっぱりこういうところに立ったら、落ちることを考えちゃうんだよね。

 

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落ちることを考えて頭の中でそのイメージができると、体がそっちに引っ張られていっちゃうんですよ。

 

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人間というのは、無意識でイメージしたものにどうしても寄って行ってしまうところがあります。

反面教師ってあるでしょ。「絶対にこういう風にならないにしよう」っていうやつ。反面教師ってけっこう危ないんだよね。「ならないようにしようならないようにしよう」って思うんだけど、イメージしてしまうのは「なってはいけない」っていう姿をイメージしているから、気が付くとそっちに寄って行ってしまうっていうのは十分にある。

 

なるほど……。

毒親に育てられた人は大人になった時自分自身も毒親になってしまいがちになる」っていう話を聞いたことがあるけど、それもこういうことなんだろうか。

 ぼくは「こういう風になりたい!」って思える人たち(親以外にも先生など)に育ててもらったから、すごく幸運だった。

 

 

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だから、望みは否定形ではなくなるべく肯定形で語ってもらった方がいいんです。

否定の形の望みっていうのは、たぶん悩みに not をつけて否定しただけで、あんまり望みになっていないんですよね。悩みが深い人ほど否定のついた形で望みが語られやすい。

 

なるほど! つまり「落ちないようにしよう」とかではなく、こういう風に言った方がいいのか!

 

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(すみません、カイジで遊びすぎました。

上記4枚の漫画は全部『賭博黙示録カイジ』7巻からの引用です。

賭博黙示録 カイジ 7 | 福本 伸行 | マンガ | Kindleストア | Amazon

 

 

 

 

本人の口から語ってもらうためにあの手この手を使う

 

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この「肯定形の望み」っていうのは、なるべくなら本人の口から語ってもらいたいんだよね。

「こういうことなの?」て聞いてみてあげるっていうのは優しいアプローチなんだけど、できればそれは最後にとっておいてもらいたいんです。

なんでかって言うと、人間って「自分で答えなければならない」って思うと、話すために考えるんですよ。

自分の頭の中でその イメージを具体的に作ってもらった時に、そっちに向かって人は動いていくわけだから、肯定的な望みのイメージを相手が自分自身で考えて頭の中で思い浮かべるように話をしたい。

 

本人の口から語ってもらった方がいい理由の2つ目は、こっちが「こういうこと?」って聞くと、それに対して「人に押し付けられたもの」って感じて、どこか「自分の問題じゃない」とか「半分否定する」みたいなことをしてしまうっていうのもあります。

でも自分自身で考えたものっていうのは、人から押し付けられたものじゃないから否定ができない。

だから、質問ワークで質問っていう形にどうして極力こだわるのかって言うと、こっちから提案やアドバイスをするよりも質問した相手が答えを出してくれた方が自分自身で思いついたいいアイディアとして大事に取っておいてもらえるからです。そうすると影響力が大きくなります。

こっちが言わなきゃいけないのは、最後の手段です。

 

「話すために考える」というのはすごくよく分かる。

自分の中ではしっかり考えられてると思っていることでも質問されて答えようとすると全然上手く言えないことがあって、それでも話すために頑張って言葉にしていくと、「ああ、自分は本当はこう考えていたのか!」と気づくことができるのだ。

 

「他人に出してもらった答えは押し付けられたように感じてしまう」というのもよく分かる。

望みとは違うけど、他人から教えられた「バズる方法」はものすごく取り入れがたい。自分で考え出したアイディアじゃないからそんなに良さそうに思えないし、そのまま取り入れたらなんか負けのような気がしてしまう(そんな姿勢は良くないとは思っている)。

 

 

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ここですごい固まっちゃう人っていうのは、悩みのイメージは強く持ってるけど望みのイメージが持ててない、悩みが深い状態なんだなっていうのが、話を聞いてて分かるわけです。

 

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相手の口から望みがあまりにも出てこなかったら、ちょっと助け舟というかヒントを出すんだけど、そっくりそのまま相手が言いそうなことを言ってバチっと当たってしまうと、せっかくの望みのイメージなのに人から言われたものになっちゃうじゃん。これが嫌なんだよね。できたらその人の望みはその人に語って欲しい。

そこで、わざと微妙なトーンでその人の望みとちょっとズレてそうなことを混ぜてみたりとか、極端に全然違ってそうなことを言ったりとか、「わざと間違える」っていう技を使ったりします。

 

悩みが深い人も自分の望みと違うことを言われると、「それじゃない!」っていうことは感じるんだよ。

「これじゃない!」って言ってくれたら、「あぁ、違うんだ。じゃあどんなのなの?」って目の前の違うものの違和感がどこにあるのかを聞き出して、「これはこうなんだ」っていう風に初めて肯定的な形で言いやすくなったりするっていうのがあります。

 

もちろん、「この人分かってないじゃん」って思われるリスクもあります。だから間違え方の度合いを上手く調整して、微妙なズレで収めておくんです。

 

あと、それまでの実績も重要です。

それまでに「この人はずいぶん自分の話をよく分かって聞いてくれてるな」という実績があった上でちょっとズレた時には、相手の方も「これは自分の説明の仕方がよくないのかな、難しいのかな」と思ったりして、必ずしもこちらとの関係を否定しにかかるとは限らないですから。今までの関係が重要なんです。

 

後は物言いなんだよね。

つまり間違えたい時には、「よく分かんない」っていう顔をしながら聞くと言いわけ。

「え。これってこういうことなの?」っていう風に聞くと、「不安で分からないです。本当にこれでいいの?」っていう雰囲気で聞いてるから、「いやいや、そうじゃないんだ」って言われた時に「あーそうだよね!」っていう顔をしておけば、そんなに大外しした感じにはならないよね。

 

これはマクドナルド理論と同じ話なんだろうか?

みんなが「どこでもいいよ」と行ってどこに食べに行くか決まらない時、「じゃあマクドナルドは?」とあえてあり得にくい選択肢を出すことで「いやマクドナルドはいやだ!ラーメンがいい」という風に本当に行きたいところを聞き出すという、あれだ。

 

確かに「こうしたい!」っていうのはなかなか言いにくいけど、「こうはしたくない!」「そうじゃない!」というのは言いやすい気がする。

 

自分の望みと80%ぐらい近いことを言われたら「ちょっと違うけどまぁいいか……」と思って何も言わずに「そうです」って言ってしまいそうだし、あえて40%とか外れたことを言って「いやそうじゃないんです」と90~100%の答えを引き出すというのは確かに上手い手なのかもしれない。

 

ただこれはやっぱり相当難しそうだ。

関係性を構築した上で表情にも気をつけなければならないなんてハードすぎる。失敗が許されるワーク以外では当面はやらないようにしよう。

 

 

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「あなたはこういうことを望んでるの?」という物言いではなくて、この資料のように聞くというやり方があります。

 

この聞き方では、AやBやCの部分がさりげなくアドバイスや提案に実はなってるんですよ。

でも「押し付けられた」って気はあんまりしないんだよね。ただの「こういう人がいるよね」っていう具体例だから。

そうすることで提案やアドバイスをしても反発されにくいし、場合によっては自分で考えたことになる。なぜなら自分で選んでるから。

「選ぶ」っていうステップが入っただけでも、だいぶ自分の判断になってるわけです。

「いかに自分で選び取って考えたと思ってもらうか」っていう演出の技術 っていうのは結構大事です。

 

なんか詐欺師のテクニックみたいだ……。

実際、悪い人もこのテクニックはかなり使ってるんだろうな。こんな風に。

 

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ダメだ、どうしてもカイジが出てきてしまう……!

この3枚は『賭博黙示録カイジ』10巻からの引用です。

賭博黙示録 カイジ 10 | 福本 伸行 | マンガ | Kindleストア | Amazon

 

 

 

 

 

言葉の定義は人によって違う

 

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この「木」っていう言葉には、実際に指し示す「その辺に生えてる木」っていうのがあるじゃないですか。

「実物があって」、「この言葉がその実物を指し示す」というのがワンセットになって記号として成立している。

 

聞いたことない話だけど、言われてみれば確かにそうだな。

 

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ぼくの箱の中身は一般的な人の箱とだいぶ違うらしい。

言葉は正しく使おうといつも気をつけてるんだけどな……。

 

 

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相手が使っている言葉、ラベルの貼ってある箱の内容がなんなのかということをちゃんと把握しながら共有して会話をするということです。

 

人と会話してて、「この人はこの言葉のをぼくがイメージしてるものとは違う意味で使ってるんじゃないか……?」って思ったことがあんまりないんだよな……。だからこのテーマはあんまりピンとこない……(今のところなかなか重要だと思えない)。

 

……と思ったけど、あった!フェミニストの人との会話だ!

以前あるツイートをしたら「それはセカンドレイプですよ」ってフェミニストの人からリプライされたんだけど、セカンドレイプという単語を検索してみたらぼくの言動はその定義に当てはまっていないようだったから「セカンドレイプの意味を勘違いされていませんか? なんでぼくの言動を問題だと思ったのでしょう?」って聞いたら、「『なんで人を殺しちゃダメなんですか?』みたいな質問しないでください!セカンドレイプをしちゃいけないなんて当たり前じゃないですか!シーライオニングお断り!」って言って逃げられたんだ。

今思い出してもムカつく。人を批判する時は言葉の意味ぐらいちゃんと理解してから正しく批判してほしい。

 

 

 

話し手の言葉の定義を知る方法

 

資料を見ればほぼ分かるので説明は省略!

 

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おやつであるものとおやつでないものの間に引かれた境界線の形、これが「おやつ」ってことだよねと、そんな風な考え方をするわけ。

 

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時間がなかったりする時はいきなり「その言葉の定義は?」って聞くのもアリだけど、基本的にはこの資料に書いてあるような聞き方をした方がいいらしい。

確かにそうした方が境界線がよりくっきり見えるけど、正直、ワーク以外でこういう聞き方をして嫌がらずに素直に答えてもらえるイメージが浮かばないかも……。

ワークででさえ、「頭のいい人って具体的には誰?他には?」って聞かれたのけっこう負担だったからな……。

 

 

 

 

 

ワークの感想と反省

 

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・ぼくは言葉の定義にけっこう厳しい人だと思ってたけど、質問されまくってみるとどれだけいい加減な定義で言葉を使っていたかが分かった。

 

確かに「頭がいい」にもいろんな種類があるし、「ピンとこなかった」は普段は「よく分からなかった」って意味で使うけど、あの時は「重要だと思えなかった」という意味で使っていた。

 

言葉の定義を聞かずにこのズレを放置しておくと、めんたねさんはもしかしたら「俺の授業よく分かんなかったか……」と落ち込んでいたかもしれない。

 

というか、こういうことは確かに思い返せばけっこうある気がする。

姉と母がケンカしてぼくが間に入った時も、母が使った言葉を姉が変に悪い意味に捉えたせいでめちゃくちゃ傷ついていて、「お母さんはこういう意味で言ったらしいよ」って伝えたら急に機嫌が良くなったということがあった。

 

定義のズレなんていうつまらないことで不幸が起きるのはもったいない。ちょっとでも違和感を感じたらすぐに聞いた方がいいと思った。




・ケンタさんの話を聞く時に悩みを掘り下げなかった。

 

はじめにこういうやりとりがあった。

 

ケ「仕事に関して、なんかこのままじゃいけないなっていうのをなんかもやっとしています」 

 

レ「そうなんですね。具体的に1つエピソードを教えて欲しいです」

 

ケ「うーんと、具体的に言うと……そうですね。多分、整骨院一本でやっていくのがちょっと違う気がする。なんか仕事の幅を広げたいというか」

 

レ「これってどうエピソードにすればいいんだ……?

まぁ、じゃあ、えっと、仕事の幅を広げたいと言うのが悩みなんですね。じゃあどうなったらいいなって思いますか? 今の状態がどうなったらいいなって言う風に思いますかね?」

 

 

「仕事の幅を広げたいというのが悩みなんですね」と言っているが、「仕事の幅を広げたい」というのは望みである。間違えた……!

後でめんたねさんがやってみせてくださったように悩みをもっとちゃんと掘り下げていれば、望みをもっとスルスルと引き出せたかもしれない。

 

 

 

・ケンタさんの「コレジャナイ」顔に気がつかなかった

 

ワークの最中はケンタさんの表情の異変に全然気がつかず「よし!望みを引き出せたぞ!」と思っていたが、後から見返してみたら最後のケンタさんの顔はどーーー見ても「コレジャナイんだよなぁ……」と言っている。なんでこんなに分かりやすい表情をしているのに気がつかなかったんだ!アホか!

 

「時間内に終わらせなきゃ!」と焦っていたとは言えこれはひどい。カウンセラーに相談してこういう風にされたら「あ、この人無能だな」と思って心を閉ざしてしまうだろう。本当に良くない。

 

 

望みエピソードを聞く時に「YouTubeやりたいんでしょ」みたいに誘導してしまったこともそうだけど、すごく焦ってしまう。

 

めんたねさんは

 

「久保くんが焦る必要はないんだよ。けんたくんの問題だから。『俺の問題じゃないし』って切っておく」

 

とおっしゃってたけど、ぼくはそうやって「切る」ことがだいぶ苦手なんだと思う。相手と一緒に悩み苦しむということを第一に考えてきたから、めんたねさんに教えられている間は切り離そうと頭では思っていてもなかなかできない。

 

でもコレジャナイ顔(or声)に気がつかないとか誘導するとか、時間制限がない時はやってる記憶がないんだけどなぁ……。気がついてないだけでやってるのかな……分からない……。

 

 

・相手に興味を持つ技術を身に付けたい。

 

最後の北村さんの質問とめんたねさんの答えが興味深かった。

 

北村「いかに相手の話に興味を持つかと言うのが最大の課題なんだなと思いました。一番大事な主軸の部分は、いかに相手の話を興味をキープしながら聴き続けられるかってところに尽きるなとすごく思いました」

 

めんたね「興味が切れたらアウトなんだよね。興味を持つのも技術だと思ってるから、ぼくは。

今やってる聞き方っていうのも興味を持つための1つの工夫だよね。

「悩みと望みを知ろうとする」っていうお題、テーマを作るだけでちょっと興味を持ちやすくなるでしょ?

「相手の言葉がちゃんと自分のイメージしてるものと一致してるのかな?」って気になれば少し興味を持ちやすくなるでしょ?

だから興味を持ちやすくなるためのポイントをなるべく伝えてるって感じ」


「興味を持つのも技術」というのは名言だなと思った。興味なんて知識と人間性だけだと思ってたけど、技術も関係してくるとは!!


ぼくはお気に入りのバーでよく孤独になる。自分が全然知らない話をみんながしていると全く興味がなくなって輪に入れなくなるからだ。1時間黙って過ごしてみてもやっぱり輪に入れなさそうだと思って帰るなんてことがザラにある。

 

どうやっても興味を持てないんだから仕方ないかと諦めてたけど、技術の問題であれば諦めなくて済むかもしれない。色んな技術を身に付けて、興味を持てる幅を増やしていきたい。

 

 

人生最大の転機 ー「根拠のない自信」が折れた話ー

 

 

これまで、ぼくの人生には大きな転機が3回あった。

 

1回目は、根拠のない自信が折れた高校2年の9月。

2回目は、将来の夢が決まった高校3年の2月。

3回目は、大学中退をやめることにした大学2年の3月。

 

どれもぼくの人生を劇的に変えた、革命的と言ってもいいぐらいの大きな転機だった。

 

3回目の転機の話はすでにブログに書いた。

2回目の転機の話も近い内に書こうと思っている。

 

今回は、1回目の話をしたいと思う。

自信が折れたと言うと悪いことのようだが、この体験がぼくという人間を劇的に改善させた。

 

今のぼくは全てこの体験を元に作られているから、3回の内でこれが最も大きな転機だったと言えるだろう。

 

 

 

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ぼくは小さい時から、全能感溢れる子供だった。

根拠なく自分は何でもできると思っていて、将来は地球温暖化を止めるとか1万円札の肖像画に載るとか本気で考えていた。

 

特に何かきっかけがあった訳ではない。気がついたらそういう人間になっていたのだ。

 

これは間違いなく、バングラデシュ人の父の遺伝子の影響である。父も全くそういう人間で、自分は誰よりも偉いとか国を救うんだとか本気で考え公言する人間だった。

 

実際にそれだけの能力が伴っているなら、そういう大口を叩いてもいいだろう。だが父は残念ながら、極めて無能な人間だった。

 

自分は誰かに雇われるような安い人間じゃないと言って会社を建てては潰し、また建てては潰しを繰り返して借金まみれになり、生活費すら家に入れない。

その上反省も学習も一切せず、自分を騙したあの人が悪いとか次は必ず上手くやれるとか言っては失敗を繰り返し、ついに高校2年の8月(ちょうどこの転機の話とほぼ同じ時期だ)に母の強い要望で離婚させられたのに、未だに少しも謙虚になっていないという恐ろしい人間なのである。

 

そんな父の遺伝子を色濃く受け継いでしまったぼくは、父と全く同じ精神と能力を持つ人間として育った。つまり、「実際には極めて能力が低いのに全能感に溢れている人間」である。

 

それでも小さい内から色々なことに挑戦していれば、早い内に「あれ? やっぱりぼくって無能じゃね?」と気づくと思うのだが、ぼくはずっとそういう気づきを得なかった。何の挑戦もしてこなかったからだ。

 

小学校は普通に友達とゲームをしているだけだったし、中学校は持病が悪くて部活に入らなかったので、アニメをひたすら見るだけの怠惰な毎日を送っていた。

 

そんな自堕落な日々を送っていることに空虚さや焦りを感じてはいたものの、自信だけは全く失っていなかった。

 

「今は何もやっていないから何の成果も出せていないだけだ。何かやりたいことを見つけて頑張れば、ぼくは誰よりもできる人間なんだ」

 

そう信じて疑わなかった。

挑戦しなければ失敗もない。自分の能力が未知数なのだから、できると思い込むのは簡単だった。

 

 

 

そんなぼくは、高校に入学してすぐ演劇部に入った。

「気まぐれに体験入部してみたら先輩方がキラキラしていて楽しそうだったから」というごく普通の動機で入ったこの部活が、ぼくの人生を全く違うものにした。

 

活動し始めてすぐ、ぼくは大きな違和感を感じた。

部員のみんなと全然仲良くなれないのだ。みんないい人たちなのにぼくとの間に明らかに分厚い壁があり、全く馴染めなかった。

 

それまでの人間関係ではそんなことはなかったらしばらく訳が分からなかったのだが、ある時やっとその理由に気がついた。

 

演劇部は、「目的意識のある集団」だったからだ。

 

ぼくはそれまで、一緒にテレビゲームやカードゲームをするだけのゆるい友達付き合いしかしてこなかった。そういう人たちとは、ただ明るくてちょっと面白いところさえあれば簡単に仲良くなれる。

 

だけど、目的意識のある集団はそうではない。

公演という目的を達成するためには、ただゲームをするだけよりずっと深いレベルで人間関係を構築する必要があるのだ。互いに空気を読み、気遣いをし、引くべき時には引き、怒るべき時には怒らなければならない。

 

ぼくが入った演劇部は年間300日ぐらい練習があるかなりしっかりとしたところだったから、求められるレベルは低くなかった。

 

母からやや過保護に甘く育てられ、小学校ではゲームだけをし、中学校でも帰宅部だったぼくは、演劇部という目的意識を持った集団でどう振る舞うべきなのか全く分かっていなかった。

 

小学生が高校のしっかりした部活に入ってしまったようなものだと考えてもらえれば、どんな感じか割と想像がつくのではないかと思う。

 

 

空気を読まずに行動する、ナチュラルに人を傷つける言動をする、引くべきところで前に出る……。大抵の黒歴史を笑って話せるぼくでも思い出すのが嫌になるぐらい、本当に酷いものだった。

 

それだけでも超ウザいのに、途中から全国大会に行こうなどと少年漫画の読みすぎにもほどがある夢を語り出したりして、もう本当に部員全員から引かれていた。

 

それでもぼくがメキメキと成長していくならまだ良かったのだが、それすらなかった。

 

顧問の先生は優しくも厳しかったから毎日のように叱ってくれていたし、演劇についても色々なことを教えてもらっていたにも関わらず、ぼくは約1年半、人間的にも演劇的にも全くと言っていいほど成長しなかった。

 

何故か?

ぼくが、自信満々だったからである。

 

いや、人間力や演技に自信があったという訳ではない。

空気読めてないなとかスベッたなとかいうことは流石に分かるし、演技も上手いとは全然思っていなかった。

 

だが、根本的なところに絶対的な自信があったのだ。

 

「今は色々なことが噛み合わなくてうまくいってないけど、ぼくは本当はめちゃくちゃできるヤツなんだ。だいたいぼくは脚本と監督を担当したら最高の劇を創ってみせるってずっと言ってるのに、その役割を任せてくれない顧問の先生が悪いんだ!」

 

典型的な、「俺はまだ本気を出していないだけ」状態である。

 

凝り固まった自信のせいで自分を疑うことをせず、他人の言葉を全て跳ね除けていた。だから成長しなかったのである。

 

 

 

 

そんなぼくに、高校2年の夏に転機が訪れた。

念願の脚本と監督を任せられたのである。

 

それらを任せられたのは意外にも、部活ではなくクラスの方だった。

 

9月にある文化祭の出し物で、ぼくのクラスはぼくが提案した演劇をやることになったのだ。脚本は投票制だったがぼくのプロットが通り(この時から物語を書くのはそこそこ得意だった)、その流れで監督も任せられることになったのだ。

 

「やっと脚本家と監督になれた!」とぼくは大喜びし、リーダーシップを発揮し素晴らしい劇を創っていくイメージを思い浮かべてニンマリした。

 

だが、そのイメージ通りにできるわけがなかった。そんな重い役割を担うのは初めてなのだから当然である。

 

脚本の完成を遅らせる、そのことを「忙しかったからしょうがないじゃん」と言い訳する、まだセリフを一行も書いていない役者を休みの日になんとなく呼び出して一日無駄にさせる、一生懸命仕事をしてくれてる人に対して「そんなチマチマとした仕事やらないで」と言う、何をどれぐらい買えばいいのか全く計算せずに大道具の材料を買いに行く、監督の代役を誰にもお願いせずに仕事を放り投げて部活に行く……。

 

あらゆる面において最悪の監督だった。本当に何もできていなかった。

 

そのせいで、クラスメイトのヘイトが恐ろしいほど溜まった。それまではクラスでは特に嫌われていなかったのにほぼ全員から嫌われ、呆れられ、怒られた。平和な風土の学校だったのでいじめられたりすることはなかったが、クラス中のヘイトを一身に感じる日々が何週間も続いた。

 

クラスメイトのみんなのおかげで文化祭当日には奇跡的にちゃんと形になった劇をお客さんに届けることができ、評判もけっこう良かったけど、ぼくの心はもうズタボロになった。

 

この体験を通して、ぼくは生まれて初めてこう悟ったのである。

 

 

 

「ぼくって、“できないヤツ”だったんだ」

 

 

 

そう思わざるを得なかった。望んだ役職を与えられ存分に能力を振る舞える日々を過ごしたのに、結果があの有様だったのだから。「本当はめちゃくちゃできるヤツなんだ」と言える逃げ道はもうどこにもなかった。

 

遺伝子レベルでぼくのことをずっと支えていた「自信」という超強力な柱が、ポッキリと音を立てて折れた。

 

 

 

 

 

それからぼくは、ガラリと変わった。

演劇部での振る舞いが全く違うものになったのである。

 

全国大会に行きたいなんて思わなくなり、信じられないほど丸くなった。

そして何より、顧問の先生の言葉がちゃんと響くようになったのだ。

 

先生は日々色々なことでぼくを叱ってくださったけど、突き詰めれば全ての教えは、

 

 

「人の気持ちを考えろ」

 

 

というものだった。

 

ぼくはずっとこの言葉の意味が分からなかった。「ぼくは人にめちゃくちゃ優しく接しているのにどうしてそんなことを言われなきゃいけないんだろう?」と不服に感じていた。

 

でも、自信が折れたおかげでもう一歩深く考えてみようと思えるようになった。

 

「もしかしたら先生の言っていることは正しいんじゃないか? ぼくの優しさは間違っているんじゃないか? 」

 

そう何日も延々と考え、ある日、ぼくはついに分かった。

 

 

「そうか! 相手の立場に立たなきゃいけないんだ!!」

 

 

そう、ぼくはいつも「自分が良いと思ったこと」をしていただけで、「相手がどう思うか」は一切考えていなかったのだ。

それではどれだけ優しくしているつもりでも、嫌われたり怒られたりするのは当然だった。 

 

 

ぼくはそれから、あることを自分に課した。

 

「言動をする前に、必ず一歩立ち止まる」ことにしたのだ。

 

何か言いたいことがあってもいきなり言わず、「この言い方だと相手は傷つくんじゃないかな?」「今このタイミングで自分が発言したら、場の流れが止まっちゃうんじゃないかな?」と必ず立ち止まって考えるようにしたのだ。

 

これは、野球のバッターがイメージに近いと思う。

 

これまではボールを投げられたら何も考えずに全部バットを振っていたので、空振りしたりボールをとんでもない方向に打ったりしてばかりだった。

 

だが、バットを振る前にボールをよく見極めてみることにしたのだ。

 

しばらくはミットに入るまでの一瞬の間にどんなボールかすぐに見極めることができなかったので、多くのボールを見送った。口数は半減した。

 

だけど自分に投げられたボールをよく見たり、人がバッターボックスに立っている時の様子をよく観察したりするのを続けていると、少しずつ会話というものが分かってきた。

 

「このボールを打とうとしたら、たぶん空振りしたりファールになったりするな」

「このボールは得意なコースだから思い切り打って大丈夫だな」

「このボールは思い切り打てるだろうけど、チーム全体のためにはバントしておいた方がいいな」

 

しばらくは成績が変わらなかったが、その習慣を辛抱強く続けていたら、いつの間にか少し打率が上がっている自分に気がついた。

 

「あ、あれ…? ヒットが打てたぞ…??」

 

この喜びはなんとも言えないものだった。

これまでずーっとほぼ三振かファールしかできていなかったのに、ボールがバットの芯に当たる感覚を肌で感じることができたのである。これはとてつもない快感だった。

 

 

 

また、「思考」の面においても変化が訪れた。

 

たぶん同じ頃だったと思うのだけど、同期の男子部員がぼくにこう言ったのである。

 

 

「人間、考えないと駄目だと思うんだよね。考えないと人間じゃないと思う」 

 

 

衝撃のセリフだった。

「考えないと駄目」なんて、ぼくはそれまで考えたこともなかったのだ。

 

その同期の男子部員はめちゃくちゃ仕事ができて人望も厚い、ぼくとは対照的な人間だったのだが、どうして同い年なのにこんなに大きな差があるのだといつも疑問に思っていた。

 

だがようやくその疑問が解けたのである。

 

 

「そうか、ぼくとこいつとの差の秘密は、『考えているかどうか』にあったのか!」

 

 

だとしたら恐ろしいことである。たった一点の違いで人生の明暗が分かれてしまうと言っても過言ではないのだから。

 

ぼくは思った。「考えないと!!」

 

それからぼくは常に、「考えろ」と自分に言い聞かせるようにした。

 

 

「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」「考えろ」……

 

 

会話をする時も、気遣いをする時も、演技をする時も、言い過ぎなぐらい自分に言い聞かせ続けた。

するとちょっとずつ、「あれ、久保にしては考えたじゃん」みたいな反応をもらえることが増えてきた。

 

 

 

「一歩立ち止まって相手の立場に立つ」

「考える」

 

 

この2つを徹底的に意識し続けた結果、演劇部の人たちのぼくに対する反応が激変した。

 

1111日の誕生日に、それまでずっとぼくに無関心だった同期の男子部員からチョッパーのぬいぐるみをもらった(いつも配信の時に映っているアレだ)。

 

クリスマス公演でぼくが演じたピエロの役のパフォーマンスをみんなから面白がってもらえた。

 

冬公演では誰よりも演技が上手いと言われた。

 

春公演で先生が怒って帰ってしまった時の反省会で、「誰よりも久保くんが的を射た意見を言うから」と司会を任された。

 

 

 

この間、文化祭が終わってからたったの半年間である。 

自分でも信じられないほどの変化だった。

 

あるとき神藤ゆずかさん(「全然1番の友達じゃないわ笑」と言った人だ)に「演劇部内で1番成長したのは久保くんだと思う」と言ってもらったことがある。

1番かどうかは分からないけど、ぼくは確かにとてつもない成長をすることができたと思っている。

 

そんな奇跡が起きた理由は間違いなく、文化祭で自信がポッキリと折れたからだ。

あの時から全てが好転した。

 

根拠のない自信が折れたから、自分を疑うことができ、人の言葉をいたずらに跳ね除けず、素直に聞けるようになったのだ。

文化祭で脚本家と監督を担当してズタボロになる体験をしていなかったら、あの成長はなかっただろう。もしかしたら今でも、文化祭前と同じような人間のままだったかもしれない。

 

自信が折れて、本当に良かった。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーー

 

 

 

これで1回目の転機の話は終わりだが、この話を聞いて今、誰もがこう思っているだろう。

 

 

「いや、お前今また自信満々になってるし人の気持ち全然考えられてないやんけ。それが気になって全く話に集中できなかったわ」

 

 

と。

 

 

ぼくは正直、このツッコミに対してなんと答えたらいいか分からない。

 

 

この記事でぼくは次のように書いた。

 

rentalhanashiaite.hatenablog.com

 

だけど新たに意識することが増えた時、明確な「対比」が生まれた。

 大半の人ができていないことが、自分はできている。

このことを客観的に感じるようになり、ぼくは生まれて初めて、「自分は話を聞くのが上手いんだ」と自覚した。

これが、ぼくが「自分は話を聞くのが上手い」と思うようになった経緯と根拠である。

(「客観的に感じるようになり」と言ったが、もちろん完全に客観的になれてはいない。どんなに俯瞰しているつもりでも結局は主観の域を出ないし、相手から好意的な評価を受けることもあったがお世辞である可能性が当然あるからである。だが少なくとも、「なるべく客観的であろう」という意識は常に持つようにしていた)

いつか別のところで詳しく話すと思うが、「話すのが上手い」というのにも、「優しい」というのにも、「論理的思考力が高い」というのにも、全て同じような経緯と根拠がある。

(中略)

ぼくは高校2年生の時までは、正しくない自信を持っていた。比較する対象がいなかったり無視したりしていたから、根拠なく自分はできる人間なのだと思い込んでいた(コミュニケーション力に関してとかではなく、ただ漠然と『自分はできるヤツだ』と思っていた)

だけど、今は違う。

ぼくは今話したような「対比」を通し、都度改善を繰り返し、少しずつ自信を積み上げていったのだ。

改善を繰り返してきた自分と改善を怠っているように見える他者を冷静に対比できているから、ぼくは「自分は優秀だ」と自信を持って言えるのだ。

 

そう、ぼくは「自信を持つこと」が悪いと思っているわけではない。「根拠のない自信」だけを持つことは良くないと思っているだけなのだ。

 

ぼくはあの文化祭の後から約9年間、対比と改善を猛烈に繰り返してきた。そうして「根拠のある自信」を積み重ねていったから、自信満々になっていたのだ。

 

(もちろんだからと言って、自分を疑うことをサボっているわけではない。「ぼくはなぜ誰からも認められなかったのか」というタイトルのブログ記事にも書いたように、「自信を持つこと」と「自分を疑うこと」は両立できる)

 

 

ぼくはこのワークショップ第2回の感想記事を読んだみなさんから、

 

「なるほど!レン話さんがやたら自信を持っていたのはそういう理由だったんですね!納得です!実際すごく上手に話を聞けてるし、自信を持っていていいと思います!!」

 

と言われると思っていたのだが、実際にはそういう声は全く上がってこなかった。

そのせいで「え、ええ……? ぼくの自信はやっぱり間違ってるってことなの……?」とかなり困惑し落ち込んだ。

 

そしたらその数日後に受けたワークショップの第3回で、ぼくの話の聞き方が急に褒められた。ぼくとしては全然自信のなかったところだったのだが、なぜか多くの人に高く評価してもらったのだ。

さらにその後も、自分ではむしろ酷い出来だと思っていたワークショップの感想記事が褒められ、参加させてもらった選択的夫婦別姓についての対話の様子も褒められ……。

 

もう訳が分からない。何に自信を持てばいいのか全く分からなくなっている。

 

 

人の気持ちを考えることに関してもそうだ。

 

レンタル話し相手の依頼者との会話など、1対1で話す時は相手は大抵気持ち良さそうな反応をしてくれる。怒らせたり「それは失礼じゃない?」と言われたりすることは滅多にない(もちろん、「1対1だと心の中でそう思っても面と向かって言いにくい」という要素は多分に考慮しなければならないが)。

この前の依頼者なんて「どうしてそんなに人の気持ちが分かるんですか? 心理学か何かを学ばれたんですか?」と言ってくれたほどだ。

 

だが、複数の人と話す場面になると途端におかしくなる。

ぼくはTwitterツイキャスで息をするように失礼な発言を連発しているらしく、今のウォッチャーのみなさんからは「ナチュラルに失礼」と数えきれないほど言われている。

これはTwitterに限らず、高校の部活の人たちと会った時やお気に入りのバーでも似たような現象が起きている。

 

ぼくとしては複数の人と話す時も1対1で話す時と同じようにボールを良く見てからバットを振っているつもりなのだけど、なぜこうなってしまうのか全然分からない。

 

 

そういうわけで「何故か」という理由はさっぱり分からないのだが、1つだけはっきりしていることがある。

 

少なくとも今のぼくは、自信を持ったりそのことを公言したりすると、ろくなことがないということだ。悪いことしか起きない。

 

なのでしばらくは、ナチュラルに失礼な冗談とともに自信を持つことも封印しようと思う。そうすれば、思わぬところで新たな気づきや発見を得られるかもしれない。

 

たぶん、「自信がある」とか「自信がない」とか自分で決めてしまうのが問題なのだ。

 

ぼくが今受けているワークショップのタイトル、「『わからない』と思うための対話」のように、「分からない」状態でしばらく過ごしてみようと思う。

 

エッセイ 『コンビニ』

 

ぼくは大学3年生の時にエッセイ(筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文のことを書いて「随筆春秋」という雑誌のコンクールに応募したことがあるのですが、眠らせておくのはもったいないのでその原稿をこのブログに載せてみます(一応電話で随筆春秋さんに確認したら、ネットで公開しても問題ないそうです)。
 
ぼくは大きくなってからは本気で文章を書く経験をしていなかったのですが、なぜ急にエッセイを書いて応募しようと思ったかと言うと、「自分の得意なこと」を知りたかったからです。
 
ぼくは学校を創るための資金と人脈を得るために学生団体やインターンシップなど色んなことに挑戦したのですが、どれも結果が出ず、大学3年の時に途方に暮れていました。
 
「何をやっても成功しない。というかまず努力ができない。ぼくは一生成功できないのか……?」
 
と悩んでいたのですが、ある時ふと、ダメだった理由が分かりました。
 
「そうか! 好きで得意なことをやっていなかったからだ!」
 
よく考えたら、学生団体やインターンシップは「やらなければならないこと」だったり「これだったら成功するかも」と打算的に考えていたことだったりしたんですね。
好きじゃないから頑張れない。得意じゃないから成果が出ない。こんな当たり前のことにずっと気づいていなかったのです。
 
次に「じゃあ好きで得意なことはなんだろう?」と考えてみたのですが、よく分かりませんでした。
幼い頃から自分に強烈な自信を持っているくせに、「賢い」とか「優しい」とかいう漠然とした要素の自信しかなく、「じゃあ何ができるの?」と言われたらいつも何も言えてなかったんですよね。履歴書の「特技」の欄を埋めるのに毎回苦労していました。
 
「『これがぼくの特技です!』って自信を持って言える『スキル』が欲しいなぁ」と思ったもののその探し方が分からず悩んでいた時、久しぶりに超有名自己啓発小説『夢をかなえるゾウ』を読んでみたら、ドンピシャのセリフがありました。
 
 
「人生を劇的に変える1番手っ取り早い方法はな、応募することや。自分の才能が他人に判断されるような状況に身を置いてみるということやな。
落選して自分の才能がないって判断されるのは怖いねんけど、それでも可能性を感じるところにどんどん応募したらえねん。そこでもし才能認められたら、人生なんてあっちゅう間に変わってまうで」
 
 
「なるほど応募か! 応募して評価されたら、それは間違いなく自分の得意なことだ!」
 
何に応募しようかと色々と考えた結果、「文章」の力が試されるものがいいんじゃないかなと思いました。
 
「よく考えてみれば、小学生の時から作文や詩で賞を取ることはけっこう多かった気がする。卒業文集とかも本気でのめり込んで書いてたし、ぼくにとって文章を書くことは『好きで得意なこと』なのかもしれない」
 
色々調べて、「随筆春秋」という雑誌のエッセイコンクールに応募してみることにしました。締め切りや発表が近かったからという単純な理由です。
 
で、書いて応募してみたらなんと、入選してしまいました。
最優秀賞や優秀賞はもちろん無理でしたが、応募作品約400作品中、上位約20作品の「入選」に選ばれたのです。
 
 

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「うおー!! 文章の勉強なんて一切してないのにいきなりこの快挙は天才じゃね!?」
 
と例によって調子に乗った後、
 
「やっぱり『文章を書くこと』は『好きで得意なこと』なんだ! これでこれからは『文章を書くことが得意です』って堂々と言えるぞ! 文章で名を上げよう!!」
 
と思い、ぼくは大学最後の挑戦として本格的な長編小説の執筆に取り組むことになったのでした(これは大失敗に終わります)。
 
 
前置きがめちゃくちゃ長くなりました。本文並みに長かったかもしれません。
 
そんな経緯で書いたエッセイ、『コンビニ』です。ぜひご覧ください。
 
(当たり前ですが色々と今よりだいぶ拙いです)
 
 
〜〜〜〜〜〜
 
 
 からあげクンのレギュラーが床に散乱した。
「すみません」謝りながら急いで拾い上げる。
「久保くん、また?大丈夫?」
 店長が若干苛立ちながら言った。この二時間で三回目なのだから無理もない。
 床に付着した油をペーパータオルで拭き取りながら、自分のあまりの不甲斐なさに泣きそうだった。コンビニの仕事がこれほど大変だなんて、想像もしていなかった。
 
 大学一年生の十月、貯金が底をつきかけた僕は人生で初めてアルバイトをする必要に差し迫られた。迷わずコンビニを選んだが、ほぼ突っ立ってレジをしているだけでいいのだろうなと高をくくっていた。
 ところが実際に働いてみると、コンビニの仕事は想像の百倍忙しかった。ポイントカードのスキャンや商品の袋詰め、揚げ物の製造・廃棄、ゴミ捨て、トイレ掃除、消耗品の補充、郵送、納品……。あまりにも多くの仕事に目が回りそうだった。
 たかが買い物をするだけの場所の裏側にこれほど大量の仕事があるなんて。初めてのシフトのあとには人生最大の疲労が全身を襲っていた。
 アルバイトが……“労働”というものがこれほど過酷なものだったとは。まさに身に染みて理解し、身の程を恥じた。
 
 僕は小さいときから、労働というものを軽視していた。教師や経営者のような、個性を発揮でき人や世の中にも強い影響を与えられる職業には憧れていたけれど、個性が発揮されなさそうで、ただ静かに社会を支えている職業はつまらないものと思っていた。
 飲食店員、駅員、工事現場作業員、清掃員……これらの仕事は、いわゆる“社会の歯車”でしかないと考えていたのだ。そうした職業に従事している人々を町中で見るたび、「この人たちは自分の人生の大半をこんなつまらないことに捧げていて幸せなんだろうか」などと疑問に思っていた。
 それは当然、コンビニの店員に対しても同じであった。ほぼ毎日利用している家から一番近いコンビニは、朝はいつも六十歳くらいの痩せたおじいさんがレジをしている。レジ打ちも袋詰めも驚くほど遅く、あまり生気を感じない人だった。このコンビニで買い物をする度に、「社会の歯車をさせられているなんて情けない人だなあ」等と思っていた。
 
 そして僕は高校二年生の文化祭で、とんでもない過ちを犯してしまう。
 クラスの出し物で演劇をやることになり、僕の脚本が採用された。将来宇宙飛行士になりたいと思っていた主人公が魔法で十年後の未来へ行き、宇宙飛行士になっていない自分を見て愕然とするが、現在に戻ったあと奮起し夢を叶えるというストーリーだ。
 だが問題だったのは、十年後の主人公の職業だった。コンビニの店員だったのだ。宇宙ステーションで働いているはずの未来の自分がコンビニで働いているのを見た主人公は「なんでコンビニなんかで働いてるんだよ!ふざけるな!」と、未来の自分に恫喝するのだ。そして未来の主人公も「俺は努力しなかったからコンビニの店員にしかなれなかったんだ」と返してしまう。
 その演劇の上演を観た母が真っ先に言ったことは、「あんた、コンビニの店員に失礼じゃない」だった。
「もしお客さんの中にコンビニで働いている人がいたらどう思うの」と言われ、愚かなことをしてしまったことに初めて気がついた。
 だが、コンビニの店員を見下していたのは真実であった。
 
 そんな経験から、僕はアルバイト先にコンビニを選んだのだ。あのとき脚本で「どうしてそんなところなんかで働くんだ」と馬鹿にしたそのコンビニで働いてみたらどうなるだろうかと思ったのだ。
そして、結果がこのざまだった。「そんなところ」で働いた僕はものの見事に鼻っ柱をへし折られてしまった。
おい、高校生の時の自分よ。お前はそこでたったの五時間働くだけでボロボロになるんだぞ!
 それに、コンビニがなければお前は困るんじゃないのか。消費ができるのは生産してくれる人がいるからだろう。生産する為にどれだけの苦労があるかも知らずに店員を馬鹿にするなんて、お前はいったい何様なんだ?どんな思い上がりだ?
 
 翌朝、どん底の気分で家を出た。朝食を買うため、いつも通り自宅前のコンビニに寄る。
商品を手に取りレジに並んだ。いつものあのおじいさんがレジをしている。首を伸ばして手元を見てみたが、やはり捌くのがかなり遅い。
 並んでいる間、商品棚を眺めてみた。あれ、意外としっかり前陳ができているんだ。古い日付の商品が最初に手にとられるような配置がきちんと守られているし、ヨーグルトやプリンはラベルが真正面に来るよう整然と並べられていた。
 さらに店内をよく見渡すと、ピカピカに掃除された床や手書きのセール品告知ボード、高く積まれている納品ボックスが目に入った。途端、目から涙が出てきた。
 これまでは全く意識もしていなかったけれど、こんなに色々な手間や工夫があったのか。何一つ見えていなかった。あんな弱々しそうなおじいさんがどうやって納品の重い箱を運んでいるのだろう。毎日毎日、いったい朝何時から準備をしているのだろう。どれだけの膨大な時間、このお店を守り続けてきたのだろう。
 レジが進み自分の番になった。パンを二つとヨーグルトを一つ、カウンターに置く。
「いらっしゃいませ」
 おじいさんは弱々しい声で言い、ゆっくりとレジ袋を取り出し詰め始めた。ヨーグルト用のスプーンもきちんとつけてくれる。
 ああ、どうしよう。今日まで何百回と買い物をしているけど、一度も会話をしたことなんかない。毎回「いらっしゃいませ」って言ってくれていたのに、それに反応したことすらない。いつも素っ気なくお金だけ払っていた。
「あ、あと、からあげクンのレギュラー、ひとつお願いします」
咄嗟に言った。かしこまりましたと言って、レジを打つ。
「四四九円になります」
 おじいさんがしっかりと手を消毒し、からあげクンを手に取り丁寧に蓋をし爪楊枝をつけてくれる間、僕は心の中で激しい葛藤をしていた。言おうか、それとも言わずに店を出ようか。心臓がバクバクする。
 五百円玉を渡し、お釣りと品物を手渡された。ありがとうございましたと言ってお辞儀をしてくれる。
 こちらも軽く会釈をし、やはり言わずに店を出ようとした。後ろを振り返ると二人のお客さんが並んでいる。一歩を踏み出そうとして、衝動が僕を踏み留めた。
「あ、あの、いつもご苦労様です。ありがとうございます」
 目を見ては言えなかった。おそるおそる顔をあげると、おじいさんがキョトンとした顔で僕の顔を見つめていた。そして2秒くらいしてから、
「いつもご来店、ありがとうございます」
 そう言って、くしゃっと笑った。初めて見る笑顔だった。

 

「わからない」と思うための対話 第3回 感想

 

動画はこちらから!

 

www.youtube.com

 

今回のテーマはこれ!

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エピソードで具体的に望みを語ってもらう。これが上手くできると、その望みは解決に自然と近づいていきやすいタイプの望みになります。

また、本人が勝手にその望みを知って自分で問題を解決してくれる可能性もあります。

 

初めて聞く話だ。

 

 

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2つのエピソードからどのような 意味を読み込むのかには、個人の主観がだいぶ入ります。

「実際に何月何日何時にどこどこでこんなことがありました」という下段の方がエピソード。

エピソードをまとめて「こうこうこういうことがいつも起きてますよ」というのが語られる上段の方をレポートと言います。

  

なるほど。

 

 

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左側の事実の部分は人によって大きく変わらない。でも右側の、「どういう意味をそこに付けるか」というのはその人個人の主観的な解釈というのがたくさん乗ってくるんです。

 

言われてみれば確かにそうだ。

本当は親切にされていただけなのに「酷いことをされた!」と憤慨しているような人はよく見る。

 

 

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話を聞く時にいきなりレポートだけ聞いてると主観的な解釈がたくさん混じってくるので何が起きているのかよく分からないんですよね。

まず実際にあったエピソードをしっかり聞いて、事実として何があったのかということを追っていくと、そこは解釈の余地が少なくて割と同じ形で共有しやすいわけです。

ただし話してる側と聴く側とでこの事実に対する解釈の仕方、意味の当て方っていうのは多分だいぶ違うんです。それが「違っている」っていうことを認識しながら話を進めていきます。

 

確かに事実に対する解釈の仕方は人によって全く違う。

聞き手側が「これは嬉しい話なんだな」と思っても、話し手側は悲しいエピソードとして話しているかもしれない。自分がした解釈が相手と同じだと思い込むのは危険だ。

 

 

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人間は「実際に具体的にこんなことが起きてますよね」ってイメージできる方向に動いていきやすいんです。

レポートってすごく曖昧で漠然としたものなんだよね。実際のイメージが持ちにくい。

例えばダンスをやっている時に「目の前でこんな風に踊るんだよ」って踊って見せてくれる人がいると、その真似をすればいいじゃないですか。そうすればすごく踊りやすい。

レポートの形だとぼんやりしているからよく分からなかったりするので、頭の中に「どういう風に動けばいいのか」とか「どういうふうになるのが理想な状態なのか」っていうイメージを持って、それを実際に実現すればいいわけです。

 

これはなるほどと思った。

アドバイスする側の時、「こういう風に考えたらきっといい感じになりますよ」と言っても相手があまり納得していないことがある。

今思えば、悩みが解決した時の状態を具体的にイメージできていなかったせいでしっくり来ていなかったのかもしれない。ビジョンが具体的に見えていなければ希望が持てないし、第一歩目をどう踏み出していいか分からない。

 

 

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じゃあどうやってなるべくエピソードレベルで具体的な形でイメージが見えるようにして望みを語ってもらうかっていうと、悩みが深い時ほど大体左下の「悩みレポート」からスタートします。悩みで困っているんだけど、具体的な事例よりかは「いつもこうなんだ」とか「いつもああなんだ」とかいう話に持って行きます。

 

さっきの久保さんの話に当てはめると、「ぼくはいつもみんなに分かってもらえない」っていう悩みは左下だよね。で、その状態で問題解決するというのはすごく難しい。

そこで、「具体的にじゃあ最近どんな困ったことがあったんですか?」って言うことで「セクハラメンタルと言われた」とかいうエピソードが出てきた。

で、少なくとも「いつもぼくは誤解されるんです」という話よりは「セクハラメンタルってすって言われたんです」っていう話の方が聞く側も共有しやすいよね。「いつも誤解されるんです」っていうのが何をイメージしているのか分からないから。

 

で、最終的にはこの右上の「望みエピソード」の具体的なレベルで語ってもらえるとすごく分かりやすくていいんだけど、いきなり左下から右上に行けないんです。

だから「右下→右上」の下回りで行くか、「左上→右上」の上回りで行くか2種類ルートがあるんです。

これ、どっちで行く方が 右上に来やすいかって言うと、今までの僕の経験上で言うと「下回り」なんだ。

悩みの時点でエピソードを聞いてしまって、それから「じゃあその実際にあった出来事が本当だったらどういうふうに行ったらいいと思うの?」って聞くと、割と具体的な形で望みが語られる。それはその人を動かす材料やエネルギーになりやすい。

 

なので今日は、この「右下→右上」っていう流れで動いていく練習をしようと思っています。

 

聞いたこともない単語や話でなかなかスッと頭に入っていかないけど、すごく大事な話だと思う。

今までの相談では「悩みをなんとなく解決していく」という漠然としたことしか考えていなかったからどこに向かっているか分からず不安だったけど、こうして図を明確に頭に思い浮かべることができれば、地図を持っているような安心感が持てる。この図はめちゃくちゃありがたい。

 

 

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悩みが深い人ほどレポートで語ります。

じゃあどういう風に聞いていけばいいかというと、こういう風に聞くと良いと思います。

 

上手に加減を考えて聞かないと責められているように感じてしまうかもしれないなと思った。

 

 

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中には、悩みが将来に向けての不安っていうケースがあるんですよ。今何かが起きているわけじゃないけどこの先何かまずい事が起こるんじゃないかって不安になっちゃう。

このケースの時ってエピソードがなくて、エピソードがないから実は解決もしにくいんですよ。

それでもなるべく望みを具体的なエピソードレベルで語って欲しいので、よく聞くのは、

「じゃあもしあなたが映画監督になってその理想通りのウハウハな状態っていうワンシーンを映画で撮るとしたら、それはどういうシーンになるのですか?」

というものです。

そうすると、「単に幸せになりたいんです。幸せになりたいのになれないんです」って言っていた人が、「1ヶ月間ハワイで楽しそうに過ごしています」みたいな、そういう具体的な望みエピソードが語られたりします。

この映像として語ってもらうっていうのは困った時に結構使えます

 

言葉だけじゃなくて映像でイメージすると、具体的に考えられるし希望が持てるしいいなと思った。

 

 

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こういうワークをやってみましょう。

 

 

ワークをやってみての感想

 

 

・エピソードレベルに落とし込むのは難しい

 

資料を見た時は簡単そうに思ったが、実際にやってみるとどれだけ難しいかがよく分かった。聞き手側も質問に苦戦していたし、話し手側もついレポートを話してしまったり別のエピソードを話してしまったりしてしまっていた。

 

ぼく達がいかに普段レポートで会話しているかということなんだと思う。おそらくほとんどの人は一点にスポットライトを当てる経験に慣れていない。

 

 

・エピソードを思い出すのは難しい

 

話し手側がちゃんと一点にスポットライトを当てることができても、記憶力の問題が生じてしまう。

ぼくは前日の記憶なのに上手く整理して話せなかったし、細かいところや重大なところが抜け落ちてしまっていた。

人の記憶はこれだけあやふやなんだから、都合良く(もしくは都合悪く)改変しているケースはめちゃくちゃあるだろうなと思った。

つまり、悩みレポートだけではなく悩みエピソードも全然信用ならないということだ。相手が話した悩みエピソードにはバイアスがかかっているかもしれないと疑いつつ、表面的には信じているように振る舞わなければいけない。

 

思えばこれまでも、「相手が言っていることが全然違うと思っていても嘘で『そうだね』と言う」みたいな教えが結構あった。上手な聞き手になるというのは上手な嘘つきになるということなのかもしれない。

 

しかし、基本的には「嘘つきですよ」ということをバラしてはいけないだろう。

となれば、ぼくは今このブログを書いていて大丈夫なのだろうかと不安になる。

手の内を晒しまくっているせいで、「レンタル話し相手さんすごい共感してくれてるけど、これってワークでそう言われてるからやってるだけで本当は全然共感してないのかもしれないのよね」なんて思われるかもしれない。いつか全部削除するかもしれない。

 

 

・思い出せないところこそ重要

 

思い出せないところはすごく重要なんですよ。

ずっと語っている中でそこの記憶だけがスポンと抜けているっていうのは、何かその人にとってすごく受け入れがたいものだったり飲み込みがたいことだったり、何か難しい重要なものが隠れているポイントであるということがあります。

だから話を聞く側としては、「ここは記憶が抜け落ちるんだ」とか「この辺になると急に話が曖昧なるんだね」っていうのを把握しながら話を聞くことになります。

 

重要な思い出ならちゃんと記憶に残っていると思っていたので、忘れているところこそ重要かもしれないという話は意外だった。

確かにぼくも入院や浪人などかなり辛かった時の記憶はほとんどないし、本当に嫌な記憶は意図的に忘れていくのかもしれない。

 

そういう部分を見つけると聞き手側は「ここが重要なのかも!」と思ってつい粘り強く聞きたくなってしまうが、どれぐらいしつこく聞くかという加減は極めて難しいと思う。

ワークだったからぼくは北村さんに何度も質問したけど、ワークを知らない普通の人にあんなことをやったら、「だから具体的な記憶なんて忘れてるわよ!『いつもこうだった』でいいじゃない!しつこいわね!!」とキレられているに違いない。

 

ここでも「解決病」を発症しない我慢が求められる。「解決するのは基本的に自分ではなく相手である」と心から思えていないと難しいだろうなと思った。

 

「わからない」と思うための対話 第2回 感想

 

めんたねさんのワークショップの第2回が終わった。

笑う場面が多く表面的には和やかなワークショップだったように見えたと思うが、ぼくは実は心の中でかなり色んな思いが渦巻いており、終わった後もずっと頭がぐるぐるしていた。

 

どんなことを感じ考えたのか、詳細に書いていく。

 

 

動画はこちらからどうぞ。

 

www.youtube.com

 

 

※1.資料の転載許可はめんたねさんから頂いている。

 

※2.

 こういう風に 

 

小さく薄い文字で書かれているのはめんたねさんの言葉の引用である。

 

※3.この記事でぼくは、自分の話の聞き方について、「これはできなかった」という反省とともに「ここはできたと思う」という肯定的な分析結果も憚らずに書いている。なぜかというと、反省だけ書くのはフェアではないからだ。

自分のことを肯定だけするのはバランスに欠けているが、同時に、否定だけするのも同じくらいバランスに欠けている。両方率直に書くべきだと思う。

 

本当は客観的な評価も書きたいのだけど、ほとんど主観的な分析結果しか書けない。なぜなら、ワークショップに関わっている3人以外は誰も何も言ってくれないからだ(泣)

 

 

こうツイートしたのに、リプライでもDMでも1つの意見ももらえない……。

 

だからほぼ主観的な判断しか書けないが、もしこれを読んで「それは違うぞ!」と思うところがあったら、肯定的なことでも否定的なことでもなんでもいいから教えて頂けると嬉しい。

 

 

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ワークショップの流れ

 

簡単に流れをおさらいすると、

 

1.北村さんの悩みを、ぼくが普段やっているやり方で聞く

2.今回のワークショップで学ぶやり方をめんたねさんがぼく達に教える

3.めんたねさんがそのやり方を実践して北村さんの話を聞く

4.そのやり方を各自がローテーションで真似してフィードバックをもらう

 

という感じだった。

 

 

 

相手の望みを重要視していなかった

 

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これからやるのは質問ワークというものになります。
主に質問だけ使って相手の話を聞くというものです。

目的は何かって言うと、相談をする人、話し手側の人が何を悩みとしていて何を望みとしているのかっていう、悩みと望みを共有することです。

(悩みと望みは)裏表の構造になっていることが分かるので、悩みを聞いてから望みを聞くという流れになります。

 

第1回の時の衝撃が再び走った。「ごく当たり前のことを言語化してルールに設定していなかった!」というやつだ。

 

考えてみれば本当に当たり前のことじゃないか。スタートとゴールをはっきりさせずにどうやって相談に乗るというのか。

 

「何を悩みとしているか」に関しては、ぼくは必ず聞くようにしている。第1回の感想の繰り返しになるが、回数は少ないものの、相手の話を聴き終わった後に「つまり〜っていうのが辛いってことなんですかね?」と質問することは徹底しているつもりだ。

 

ただ、「何を望みとしているか」についてちゃんと聞かなければという意識に関してはあまりなかった。

 

今回のワークではたまたま「北村さんは今のその気持ちをどうしたいんですかね?」と質問できていたけど(一応伝えておくと、ぼくは北村さんの話を聞く前に資料は一切見ていない)、今までの相談依頼を思い返したらそういう質問をできていないことの方が多かった。相手の望みを聞かないままアドバイスをしていたのだ。

 

なんでそんなことをしていたんだろう? というのがなかなか分からなかったんだけど、随分長い時間考えたところ、ようやく分かった。

 

ぼくは、「相手の望み」はそんなに重要なものではないと思っていたからだ。

 

とんでもないことを言ってるように聞こえるだろうけど、これにはぼくなりの考えがあるので説明させてほしい。

 

その考えとは、「必ずしも相手の望みを叶えるのが解決ではない。解決策はその人の望みとは全く関係ないところにある場合が往々にしてある」というものだ。

 

どういうことか、例を挙げよう。ぼくが相談する側だった時の話だ。

 

ぼくは会社を辞めた後しばらくは、レンタル話し相手などやらずにいきなり学校を創ろうと考えていた。投資家に投資をしてもらえばいいと思ったのである。

 

ぼくはある人に「投資家から300万円投資してもらうにはどうすればいいですかね?」と相談したら、その人はその方法を色々と教えてくれた後でこう言った。

 

「まぁでも本当のことを言うと、今の君は投資を狙ってもまず上手くいかないから、まずは自分でお金を稼ぐ方法を考えた方がいいと思うけどね」

 

正直ぼくは、「この人は何を言ってるんだ?」と思った。

ぼくの望みは投資をしてもらうことなんだからそれだけ教えてくれればいいんだよ。難しいことは分かってるけど、自分でお金を稼ぐなんて絶対やりたくないから相談に来てるんじゃないか、と。

 

だけど、どうしてそんなことを言ったのかが知りたくて質問をしたらその人は理由を親切に色々と教えてくれ、ぼくは一瞬で考えが変わった。

 

「何の実績もない奴がいきなり投資してもらうなんておこがましいにもほどがあるわ!お金は自分で稼がないとダメに決まってるだろ。自分はバカか!」

 

つまり、「自分の望み」とは全然関係ない視点のアドバイスが役に立ったのである。

 

こういうことはぼくが相談する側の時に他にもいくつもあったし、相談に乗る側の時も同様だった。むしろ望みに沿ったアドバイスが役に立ったことの方が少ないような気がする。

 

 

エンゼルバンクドラゴン桜外伝ー』という漫画に、こんなシーンがある。

 

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2巻の15話より引用。

↓の「スキマ」というサービスなら1話65円で読めます。

https://www.sukima.me/book/title/angelbank/

 

 

ぼくはまさにこういう考えを持っていたので、相手の望みを正確に知ろうという意識が希薄だったのだ。

 

 

だけど今回のワークショップを受けて、その意識は改めなければといけないと強く思った。

 

「相手の意見を無視した提案をすること」が間違っているという訳ではない。めんたねさんも「これ(実現不可能な望みなど)を何か少しずつ正そうとか思った時にはもう少し戦略的に考えて作戦を立てなきゃいけない」とおっしゃっていたように、そうすることが必要な場面はたくさんあるだろう。

 

だが、「まずは」相手の望みをしっかり聞くことが必要なんだと思う。

何故なら、そうすることでよりはっきりと「味方ポジション」に立つことができて相手に安心してもらえるからだ。

相手の望みに沿わないアドバイスをするとしても、それはまず相手の望みを聞き、それを叶えようと一緒に悩んで(少なくとも悩むフリをして)からでないといけない。

  

そのことを学べたのが非常に大きな収穫だった。

 

 

 

 

さて、ここでお伝えしなければならないことがある。

第1回は基本的に、ここまでのような感じで「こういうことを教えられて新鮮だった。こういう反省をした」みたいな話をしてきたし、ワークを受ける前までは第2回もほぼそういう感じにするつもりだったのだが、ここからは全然違う感じの話になるということだ。

 

理由を一言で言うと、「今回のワークショップの大部分の教えが、自分で元々考えていたことだったから」である。

 

こんなことを言うとまた傲慢だとか失礼だとか思われてしまうかもしれないが、事実そうであったし、ぼくの書きたいことを書くためには率直に言うしかないのでどうか勘弁して欲しい。

 

 

ワークショップの感想というよりはほぼぼくのエピソードトークみたいになってしまったが、どうしても書きたかった。読みたかったものとは違っていて不満に思われる方がいるかもしれない。そうであったら申し訳ない。

 

かなり長いし、つまらないと思ったら途中で遠慮なく読むのをやめて欲しい。

 

 

 

 

教えに心から共感した

 

まず似た内容の資料と説明を3つ連続で引用し、その後でぼくの感じたことなどを書いていく。

 

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最終的にアドバイスをするとか提案するとか何をするにしても、相談された人から「この人は自分の味方であって自分の望みに協力してくれる存在である」という風に思ってもらわないと、心の距離ができてしまって影響力が持てなくなってしまう。

まず、「この人は自分の味方なんだな。自分が望んでることを何か実現する協力をしようとしてくれてるんだな」と思ってもらう。

そういう風に「相手の味方ポジションに入る」っていうのが、質問だけ使って相手の話を聞く目的の2番目です。

だから、

1.相手の悩みと望みをきちんと共有し

2.味方ポジションに入る 

この2つの目的を達成できればまずOK とする。問題解決はその先の話。

 

 

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「こういう風に考えたらどうですか?」とか「ああしたらどうですか?」みたいなのを極力使わないということ。 

僕らは「解決病」という病気にかかっていて、人から悩みを相談されると、「とにかく何かしら問題解決につながるようなことを言ってやらなきゃいけない!」というような脅迫観念に囚われるんですよ。

 

(久保:めちゃくちゃ分かります)

  

 

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中には相談を聞いていると、「お前それは無理だろう」とか「何を言ってるんだ」とか「そんな夢物語を語ってどうするんだ」みたいな説教をしてやりたくなることがあるわけですよ。

でもそれをやってしまうと、相手は「この人は自分の味方だ」と思わなくなって味方ポジションから外れてしまうわけだよね。そうすると言葉の影響力が失われちゃうわけです。

だから影響力を確保しておくために、それがどんなに支離滅裂だったり実現不能だと感じられたりやばい事実誤認でしょうと思っても、とりあえず「そう思ってるんですね」という風にまずは否定せずに受け入れておく。

これを何か少しずつ正そうとか思った時には、もう少し戦略的に考えて作戦を立てなきゃいけないんだ。

 

ぼくはこれらの話を聞いて思った。

 

 

 

「ホンッットそれな!!!!」

 

 

 

本当にどれだけ強く共感したか分からない。

ぼくはまさにこれらのルールが大事であるとずーーっと考えていた。

 

 

ぼくは自分が抱えている悩みを解決したいという意志が強いので、相談をする機会が非常に多い。

 

「大学中退を親に猛反対されてるんだけど、どうすればいいかな?」

「どうやったら会社で働くモチベーションが持てるのでしょうか?」

「友達を怒らせちゃったんだけど、どうしたら良かったのかな?」

 

そういう時、必ずと言って良いほど一言目でこう言われるのだ。

 

 

「バカだなぁ。こうした方がいいよ」

 

 

誇張でなく8〜9割ぐらいの人がこう言ってくるのだ。ぼくは本当に本当にこれが嫌だった。

 

「こっちは勇気を出して心を開いて相談してるのに、なんでいきなり否定とアドバイスをしてくるんだよ。まずは『それは辛いね』って寄り添ってくれよ。そりゃぼくもバカで見えてない部分はあるんだろうから指摘もアドバイスも欲しいんだけどさ、そういうのはぼくの傷を癒してくれてからでいいじゃんか。孤独で辛いのに冷淡に殴ってこないでくれよ。こっちは既にボロボロなんだよ」

 

でもそんなことは言えない。なぜって、相手は善意で時間を割いて相談に乗ってくれているからだ。その善意にさらなる注文をつけることはできない。

 

だからぼくはグッと気持ちを押し殺して、「なるほど……」と言う。

でもアドバイスに一発で納得できることは少ないから、「でも〜〜〜だからそれは難しいような気がするんだよね」というようなことを控え目に言うと、「せっかくアドバイスしてあげてるのに頑固だなぁ……」みたいなことを不満そうに言われるのだ。

結局、ぼくの悩みは解決しないどころか、相談する前よりもっと辛く寂しい気持ちになっているという散々な結果に終わる。

 

これが相談ならまだいい。ぼくが「アドバイスが欲しい」とお願いしているのだから。

だが、愚痴の時もこれをやってくる人がいる。「いる」というか、これも8〜9割の人がそうだ。

 

ぼくはただ「それは辛かったね」って言って欲しいだけなのに、一切の共感なくいきなり「それは久保が悪いよ。こうした方が良かったと思うよ」と言ってくるのだ。

 

 

ぼくが相談を多くするようになったのは大学生になってからなのだが、こういうことが何度も続いた時、ぼくは思った。

 

 

人って、話を聞くのが基本的に下手なんじゃないか?

 

 

これを読んでいる皆さんは、また「大勢の人をバカにしている傲慢な考えだ」とか「ナチュラルに失礼だ」とか思うかもしれない。

ぼくも当時はそう思った。大体の人は話を聞くのが下手なんて、そんなことあるわけがない。ぼくの思い違いだ。

 

だからその考えが頭をよぎってから、ぼくは愚痴や相談をする度、人はどういうことを言うのかかなり慎重に聞いてデータを取ってきた。

 

その結果、やっぱり思い違いでないと分かった。相談や愚痴を聞いた時、大半の人は共感ではなくまず否定やアドバイスから入る。これは間違いないことだった。

 

 

 

 

自分も同じことをやっていた

 

では自分はどうなんだろう? ぼくも誰かの愚痴や相談を聞いた時、すぐに否定やアドバイスをしてしまっているだろうか?

 

そういうことを意識して過ごしていると、何回もそうやってしまっている自分に気が付いた。否定は基本的にしなかったが、「将来こういうことやりたいんだよね」みたいな話を人から聞いた時、何の前置きもなしに「それはこうしたらいいんじゃない?」と言っていたのだ。

 

これはとてつもない衝撃だった。

あんなに「いきなりアドバイスしてくるんじゃねえよ!」と怒っていたのに、逆の立場になった時はぼくもいきなりアドバイスしてしまっていたのだ。相談の時も愚痴の時もである。

 

ぼくはこの時痛いほど悟った。

 

 

「『相手の立場に立つ』って、本当に難しいな」

 

 

この「相手の立場に立つ」というのは、高校2年生の時からのぼくの最大のテーマの1つだ。常に自分に言い聞かせている。

 

にも関わらず、そうしているつもりの自分でもそれができていなかったのだ。本当にゾッとした。

 

だが、同時にぼくは、これはいいことだと思った。

なぜか?

 

 

「自分は相手の立場に立てていないんだ」ということが自覚できたからである。

 

 

まさにこのワークショップのタイトルにつけられたテーマと同じであるが、ぼくは「自分はできていない」ということを理解することは「できた」のだ。

 

今まで自分にいきなりアドバイスをしてきた人たちのことを思い出した。

あの人たちはこの自覚ができているんだろうか?

分からないけど、たぶん、できていないんじゃないかと思った。

 

ぼくは幸いにも自覚できたんだから、この気づきを無駄にしてはいけない。絶対に変わろうと決めた。

 

 

 

 

「自分は話を聞くのが上手い」と自覚した時

 

それからはアンテナをビンビンに張るようにした。人と話をしている時、アドバイスする余地があったら「気をつけろ!」と自分に言い聞かせて立ち止まるようにしたのだ。

そして基本的には何もアドバイスせず受容や共感だけをするようにし、どうしてもアドバイスをしたいと思った時は、まずは共感しまくって味方アピールをこれでもかというほどした後、「もし良かったらアドバイスしても大丈夫? まぁたぶん役に立たないとは思うんだけどさ」というような言い方をするようにした。

 

 

もちろん、そう意識した途端に完全にできるようになったわけではない。人と別れてから「あっ、あの時また無意識にいきなりアドバイスしてしまった!」と気づき反省することは何回かあった。

 

だけどそうやって気をつけまくった結果、そう時間をかけずに理想通りの振る舞いができるようになった。「いきなりアドバイスをしない」ことができるようになったのだ。

その自分を俯瞰し、「よし、できてるな」と何度も確認した。

もちろん、どんなに「それは違うだろ」と言いたくなるような突飛な内容であっても、「味方でいること」「相手の言うことをまずは受け入れること」も徹底した。自分はそうしてもらえなくて辛かったからである。

 

そして、ほぼ無意識にそれらのことができるようになった時、ぼくは思った。

 

 

「ぼくは今、『話を聞くのが上手い』と言えるんじゃないか?」

 

 

ぼくはそれまで、自分が話を聞く能力に特別秀でているとは思っていなかった。

 

人に相談されて感謝されることはそこそこあったから、「どちらかと言えば上手い方なのかなぁ?」とはぼんやりと思っていたけど、そういう体験をした回数はたぶん人並みだろうし、話を聞く時に意識していたのもせいぜい「否定しない」「一生懸命聴く」ぐらいのことぐらいしかなかったからだ。

 

だけど新たに意識することが増えた時、明確な「対比」が生まれた。

 

 

大半の人ができていないことが、自分はできている。

このことを客観的に感じるようになり、ぼくは生まれて初めて、「自分は話を聞くのが上手いんだ」と自覚した。

 

 

これが、ぼくが「自分は話を聞くのが上手い」と思うようになった経緯と根拠である。

 

(「客観的に感じるようになり」と言ったが、もちろん完全に客観的になれてはいない。どんなに俯瞰しているつもりでも結局は主観の域を出ないし、相手から好意的な評価を受けることもあったがお世辞である可能性が当然あるからである。だが少なくとも、「なるべく客観的であろう」という意識は常に持つようにしていた)

 

いつか別のところで詳しく話すと思うが、「話すのが上手い」というのにも、「優しい」というのにも、「論理的思考力が高い」というのにも、全て同じような経緯と根拠がある。

 

めんたねさんのこのnoteの記事の一部を引用しよう。

 

note.com

 

普通に生きていると、「いやあ、俺って頭が良いなあ」と思う機会は滅多にないものだ。自分の思考が自分の判断基準になりやすいからだ。仮に周りと比べて自分に優れた「論理的思考力」があったとしても、自分の頭の中ではいつも通り、ごく当たり前にものを考えているだけである。その過程を他人に見せることもあまりないし、比べることもないため、普通はさほど強く自分の論理的思考力の高さを自覚することはない。

 

おっしゃる通りである。判断基準が自分の思考や能力しかなければ、自分が優れていると思うことはできない。

いや、根拠のない自信というのはあるからできると言えばできるんだけど、それは正しい自信ではない。

 

ぼくは高校2年生の時までは、正しくない自信を持っていた。比較する対象がいなかったり無視したりしていたから、根拠なく自分はできる人間なのだと思い込んでいた(コミュニケーション力に関してとかではなく、ただ漠然と『自分はできるヤツだ』と思っていた)

 

だけど、今は違う。

ぼくは今話したような「対比」を通し、都度改善を繰り返し、少しずつ自信を積み上げていったのだ。

改善を繰り返してきた自分と改善を怠っているように見える他者を冷静に対比できているから、ぼくは「自分は優秀だ」と自信を持って言えるのだ。

 

 

 

 

今回のワークショップでの振る舞いはどうだったか

 

さて、何人かは今こう思っているかもしれない。

 

「いや、今回のワークショップでも北村さんにアドバイスしようと必死になってたじゃないか!」

 

確かに北村さんは

 

「どういう風に答えを出してあげればいいんだろうというのが伝わってきて、自分の気持ちや悩みを話すと言うよりは、思いを聞いてもらうというところから逸れていっちゃった感じがした」

 

とおっしゃっていたし、ぼくが今回のワークショップでの聞き方ができていなかったのは間違いない。

 

だからぼくもつい「アドバイスしようと必死になってしまって反省しています」みたいなことを言ってしまったが、直後にめんたねさんがおっしゃった通り、ぼくが北村さんの話を聞いた時は今回のワークショップの聞き方を知らなかったわけだし、今回教えられたことはあくまでも「こういう聞き方があるんだ」という方法の1つに過ぎず、絶対的なものではない。

 

一方、普遍的に守らなければならない基本ルールはちゃんと存在する。これだ。

ぼくはこのルールに100%同意する。

 

 

 

ぼくは今回、アドバイスを伝えようとする前にこの1〜3をしっかりやった。

「1〜3を全部やったよな。もう4に行って大丈夫だよな」と頭の中で何度も確認してから4に行ったので、「いきなりアドバイスをしない」という自分で決めたルールを守れなかったわけではない。だから、特段問題ではないのだ。

 

もちろん、今回のワークショップで学んだ聞き方はまた努力して必ず身につけるつもりである。

 

 

 

 

ぼくの考えが正しかったと証明された

 

ところで……

ぼくは今回のワークショップでこの3つのルール

 

・味方ポジションに入る

・指示やアドバイスは(極力)行わない

・相談者の言うことは否定せず受け入れる

 

をめんたねさんの口から聞いた時、とてつもなく嬉しかった。

なぜなら、「ぼくの考えは正しかったんだ」と初めて確認できたからである。

 

先ほど、「人は話を聞くのが基本的に下手なんじゃないか?」という疑念が、相談や愚痴を持ちかけた時の相手の一言目のデータを取ることで確信に変わったという話をした。だが実を言うと、真に確信はしていなかったのである。

 

なぜなら、「『相談や愚痴をした時にいきなり否定やアドバイスをされると嫌だ』と感じる人は少ない」という可能性があるからだ。

 

あまりにも多くの人がいきなり否定やアドバイスをしてくるのでぼくは、「ひょっとしてみんな逆の立場になった時にそうされるのが嫌だと感じないのか? ぼくの感覚がおかしいのか?」と疑問を持つようになった。

ぼくは考え方だけでなく感じ方もかなり独特なので、充分あり得る話である。

 

実際ぼくは1度、求めてもいないのに友達にマシンガンのように否定やアドバイスをされまくって半ギレしたことがあるのだが、その時に「◯◯さんだって同じことされたら嫌でしょ?」と聞いたら、「いや、私は嬉しいけど」と答えられたことがある。

 

だからぼくはずっと、自分が傾聴する時に大切にしているルール、

 

・いきなり否定やアドバイスをしない

・相手の味方であることをアピールする

・どんなに違うと思っても相手の言ったことをまずは受け入れる

 

これらを絶対的に大切なものだと思っているのは自分だけで、他の多くの人にとっては大切ではないのかもしれないという疑念を捨てきれずにいた。

 

もしこの疑念が正しいとしたら、ぼくはめちゃくちゃ滑稽だ。全く無意味な対比や改善を何年間もし続け、それで自分は話を聞くのが上手いと思い込んでいるのだから。

 

ぼくはコミュニケーションについて本などで学んだことが全くと言っていいほどなかったから、社会一般的に良いとされる傾聴ルールを知らなかった。

 

しかも、ぼくの傾聴スキルについて誰かから褒めてもらえることは皆無と言っていいほどなかった。

(友達は少ないが)仲のいい人はたくさんいるのにぼくに相談してくれる人なんてほとんどいないし、数少ない相談してくれる人はたまに「話して良かった!聞くの上手いね!」なんて言ってくれることもあるが、具体的なスキルを褒めてくれることは当然ながらない。

流石のぼくも「こういうルールを守りながら聞いてみたんだけどどうだった?」なんて聞く厚かましさは持ち合わせていなかったから、「聞くの上手いね」という言葉に、「一生懸命聞いてくれてるね」以上の意味があるのかどうかなんて全く分からないのだ。

 

 

そんな中で、ぼくはレンタル話し相手の活動を始めたのである。

 

ぼくならできると言ってくれた知り合いは1人もいなかった。

自分で決めた傾聴ルールが正しいのか分からなかった。

「お前なんかに話を聞いてもらいたいなんて誰が思うんだよ」というリプライが無数に来た。

 

それでもぼくはたった1人、自分で自分を信じた。

自分がしてきた対比と改善は間違っていない筈だと信じた。

たまに依頼してくれる人たちからの「助かりました」という言葉を信じた。

 

そして今日(こんにち)、ぼくはこのワークショップの第2回を受けた。

めんたねさんが資料を見せながら傾聴ルールを説明するのを聞いて、ぼくは思った。

 

 

 

「これ、絶対に大切にすべきだとぼくがずっと考えてきたルールじゃないか……」

 

 

 

正直、あの3枚のスライドを見て「なるほど」とは少しも思わなかった。ただひたすら、「そうだよな」と心の中で頷いていた。

 

なるべく表には出さないようにしていたが、ぼくは内心、弾けんばかりに喜んでいた。

 

 

「そうだよな、これらは守ってもらえたらほとんどの人が嬉しいと感じる普遍的なルールなんだよな。やっぱりぼくの感覚は間違ってなかったんだ! ぼくはずっと、正しい対比と改善をしてきたんだ!!」

 

 

ぼくの正しさがついに客観的に証明されたことが、本当に嬉しかった。

 

 

 

 

 

やっぱり人は話を聞くのが下手

 

しかしこうなると、ぼくが抱いてきた、「人は基本的に話を聞くのが下手なんじゃないか?」という疑念はやはり正しかったことになってしまう(もちろん「話を聞く」のには他にも無数のポイントがあるから一概には言えないのだけど、先ほどから話している3つのルールは基礎中の基礎だからかなり大きいと思う)。

 

ほとんどの人は話し手側のとき、相手にあの3つのルールを守ってもらわないと嫌だと感じるのに、ほとんどの人が聞き手側の時は3つのルールを守らない。これはどういうことなのだろうか?

 

 

たぶん、「ほとんどの人は相手の立場に立てていない」ということなんだと思う。

 

 

そしておそらくその多くは、「相手の立場に立てていない」ということを自覚できていない。

なぜそう思うかというと、いきなり否定やアドバイスをしてくる人たちの比率は、ぼくよりずっと長く生きている大人の人たちとぼくと同年代の人たちとで、あまり変わらなかったからである。

 

そういう過ちを10代や20代の人がしてしまうのは全然いい。ぼくだって少し前までできていなかったのだから。

だが、何十年も生きているのにそういうことをしてしまうというのは、ちょっとどうなのだろう。

「自分は相手の立場に立てているだろうか?」と定期的に振り返る習慣さえあれば、どこかのタイミングでとっくに改善できているんじゃないかと思ってしまう。

 

もちろん、全てにおいてそういう習慣がないとは全く思わない。ぼくが好意を寄せている人のほとんどは色々な場面で驚くほど相手の立場に立てているし、日々様々な反省や改善をしている。「この人は本当に人の気持ちが分かるんだな」とか、「この人はこんなことまで反省できてすごいなぁ」とか思うことは数えきれないほどある。

 

だけど、コミュニケーション、特に「聞く」ことに関しては反省や改善をサボッている人がめちゃくちゃ多い気がする。なぜかは分からないが……。

 

だからぼくは、レンタル話し相手として成功できると思っているのだ。

みんなが凄すぎて到底勝てそうにないジャンルはいくつもあるが、多くの人が反省と改善をサボッている「会話」というジャンルでは、ぼくが相対的に圧倒的に秀でることができるからである。

 

 

 

 

ぼくのウォッチャーのみなさんに言いたいこと

 

ぼくのウォッチャーのみなさんと最近少しずつ仲良くなり始めているのはすごく嬉しいし、ぼくもなるべくこの関係を悪化させたくはないのだが、この際どうしても言わずにいられないので言わせてもらいたい。

 

ぼくがめんたねさんに送ったDMが公開され一気に注目された日、みなさんはぼくに何をしたか覚えているだろうか?

 

 

そう、否定とアドバイスをしまくったのである。

 

 

・何の関係性もできていないのに

・ぼくは何も求めていないのに

・上から目線で

・敵ポジションに入り

・否定し

・アドバイス

・そのアドバイスを聞かないとぼくに言われたら素直じゃないと言い張り

・ぼくが人と会話するところを見たこともないのに「あなたと話したいと思う人なんか誰もいない」と言い

・勝手にぼくの母を気の毒に思い

・絶対に成功しないと決めつけ

 

たのだ。

 

もちろん分かっている。ネットの知らない人とのコミュニケーションなんて雑にするのが普通だし、公開されたぼくのDMがあまりにもおかしかったからぼくのことを軽んじてしまうのも全く無理のないことだ。

 

だけど、ぼくの多様な面を知り、めんたねさんのワークショップを2回観覧した今、こうして並べて振り返ってみるとどうだろうか? ちょっとあまりにも酷かったとは思わないだろうか?

 

別に怒ってなどいない。ぼくのメンタルは超鈍いから全く傷ついていないし、ぼくは逆境に逢うほど燃えるタイプなのでめちゃくちゃ良いガソリンになった。皮肉ではなく本当に感謝している。

 

だが、ぼくのことを自分達に比べて特別に劣っているとみなすのはどうだろう? とは言いたいのだ。

 

ぼくは少なくとも、いきなり否定やアドバイスなんか絶対にしない。どうしてもしたいときは必ず、相手の言うことを全て受け入れ、味方ポジションに入った後にすると決めている。

 

なぜか? 相手の立場に立てているからだ。立てていなかった時はあったが、その自分を自覚し、努力して改善したからだ。

 

そして、謙虚だからだ。最終的に自分のアドバイスが役に立つ場合はあるだろうとは思うものの、基本的には相手が一生懸命考えても分からなかった解決案を他人の自分なんかがパッと思いつけるわけがないと思っているからだ。少なくとも聞き手はそのポーズを取らなければならないと弁えているからだ。

 

  

(もちろん他の部分では、相手の立場に立てていない時や謙虚でない時はたくさんある筈だと思っている)

 

確かに、ぼくには欠点がたくさんある。しかし本当に直さなければならないような重大な欠点は、皆さんが思うほど多いだろうか?

 

note.com

 

例えばめんたねさんのこのnote記事で指摘されている「ナチュラルに失礼」な言動は、本当にシャレにならないものなのだろうか?

 

これまでのぼくの言動を追っている方々なら、ぼくがよく冗談を言うことは分かってくれているだろう。もちろん自分が極めて優れていると思っているのは本当だが、それを口にした時に人々がどういう反応をするかが分かる程度の知性はあるということも、もう分かっているだろう。

 

ぼくがツイートにアップした依頼者の方や友達とのやり取りの動画を思い出して欲しい。冗談で上から目線になって相手を笑わせることはあっても、真面目な場面で自覚していない上から目線を発揮し相手を本気で不快にさせたことは何回あっただろうか?

 

ぼくに本気で怒ったのは、ぼくが知っている中では石炭さんと佐川さんの2人だけだ。石炭さんは誤読して怒っていただけだったからきちんと説明したら怒りを収めてくれたし、後日和やかにZOOM電話まですることができた。

佐川さんは本当にぼくの落ち度で怒らせてしまったので、何の弁明もない。ただひたすら申し訳なかった。だが少なくとも謝罪することはできた(だからいいという訳では決してないが)。

 

 

 

さて、ぼくがめんたねさんに送ったDMは本当にガチだったのだろうか? それとも冗談だったのだろうか? あるいは戦略だったのだろうか?

 

答えは、皆さんの想像にお任せする。

ガチだった場合はガチだったと認めるのは恥ずかしいし、冗談や戦略だった場合は、それを認めるとつまらないからだ。

 

ただ、明らかなことは2つある。

 

1つは、このDMによってぼくの「バズりたい」「注目されたい」という狙いは結果的にかなり上手くいっているということ。

 

そしてもう1つは、ぼくに対して本気で怒っている人は今のところほとんどいないということだ。

 

 

ぼくが本当に失礼なことを言ってしまったなと反省した発言は以下の2つである。

 

「(めんたねさんと佐川さんに対して)DJ社長などの大物インフルエンサーにDMを送るのは手間をかけさせてしまうから申し訳ないけど、フォロワーが1万人ぐらいの人だったらそんなに問題ないと思う」

 

「ノートを取っている人の9割は何も考えていないんじゃないかと思う」

 

両方とんでもない発言だと思うだろう。ぼくも今はそう思う。これらは本当に失礼な発言だったと深く反省している。

 

多くの人が、ぼくが本当に失礼な人間だという根拠なんかこの2つの発言だけで十分だと思うかもしれない。

もちろんそう思ってもらってもいいのだが、ぼくに言わせれば、いきなり否定やアドバイスをしてくる人もめちゃくちゃ失礼だ。ぼくはあまり指摘をしないが、他にも「これは失礼だろ」と他人に思うことはいくつもある。

 

思うに、人はみんな失礼なのだ。

 

何度か紹介しているが、ぼくは以前こういうツイートをしたことがある。

 

 

これはぼくの大きな哲学の1つなのだが、この「バカ」は他の色んなことに言い換えられると思っている。

 

人はみんなバカで、失礼で、傲慢で、相手の立場に立てない生き物なのだ。ぼくだけがそうであるわけではない。

 

そしてぼくは全体的に言えば、かなりマシな方だと思っている。だって少なくとも、自省と謝罪と対比と改善ができるのだから。

 

 

みなさんがどう思うかは自由だ。やっぱりぼくはヤバくてダメなやつだと思ってもらっても全然構わない。

 

ただどう思うにせよ、ぼくのことをウォッチし続けてくれると嬉しい。論理的思考力を証明することは難しいが、話を聞く能力については明らかな成長を見せることを約束しよう。

 

第3回が今から楽しみだ。

 

「わからない」と思うための対話 第1回 感想

 

数日前からぼくに興味を持ってくださっているめんたねさん(@mentane)という方が、ある時こんなツイートをされた。

 

 

狙いはこうだそうだ。

 

 

お誘いを受けてぼくはもちろん快諾した。

ぼくにとってメリットしかないし、メリット云々の計算を除いてもこういう勉強には興味があり、ずっとやってみたいと思っていたからだ。

 

毎週金曜日の22時から計10回ぐらい行われるらしい。

せっかくなので毎週学んだことをブログに記録しておこうと思う。

 

このワークの様子はめんたねさんのYouTubeチャンネルで見られるので、もしまだ見ていなくて見たい人はこちらからどうぞ!

 

 

www.youtube.com

 

 

ちなみに資料の転載許可はめんたねさんから頂いています。

 

また、

 

 こういう風に 

 

小さく薄い文字で書かれているのはめんたねさんの言葉の引用です。

 

 

 

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まず「やられた!」と思った

 

ワークショップが始まる前、資料のこのページを見て「やられた!」と思った。

 

f:id:Rentalhanashiaite:20200720234119p:plain なぜか? 「実践とフィードバック」が組み込まれていたからだ。

 

ぼくは教育は基本的には「教える」割合を少なくして「実践とフィードバックをさせる」割合が多いといいと思っているんだけど、まさにそういうワークショップだったから「やられた! ぼくが先にやって日本を驚かせたかった!」と悔しく思った。 

 

でもめんたねさんに言わせれば、「君が世界を知らないだけでこんなことをやってる人はたくさんいるよw」とのことらしい(笑)

早く世界を知りたい。

 

 

 

理解できたことを相手に伝える必要がある

 

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この資料で書かれていることはかなりの衝撃だった。

 

ぼくも話し相手を自称しているくらいだからコミュニケーションのルールはいくつも持っていて、このことも考えていなくはなかったけど、「伝えた方がよりいいよなぁ」ぐらいのぼんやりとした意識しか持っていなかった。

 

でも考えてみればこれは「必ずそうしなければならない」というぐらい重要なことであり、しっかりと言語化して絶対的なルールとして設定していなかった自分の愚かさに驚いた。

 

でもぼくは「人はごく簡単なことが分からない生き物だ」という哲学を持っているから、同時に「まぁこんなこともあるか」とも思った。今気づけたのはむしろラッキーだと言えるだろう。

 

 

 

聞きそびれたらまた聞き返せばいい

 

案外相手が言ったことをそのままストンと受けとるって難しくて、ちょっと違う意味に理解したりとかポコポコ抜けたりとか、そういうのって起こるんですよね。

そうするとどうすればいいかっていうと、また聞けばいいんだよね。

「さっきここ聞いた気がするんだけどちょっと分かんなくなっちゃったからまた聞きたいんだけど」って言えば、大体みんな親切に教えてくれるので。

誤解すると関係が切れるんですよ。「話が通じてない!」みたいな。

なので、「聞き直す」っていうのはこの先のワークショップでどんどんやってもらって構いません。

  

これも言われてみれば当たり前のことなのに分かっていなかった。

 

ぼくが1番多いパターンは、「相手の話について考えすぎて聞きそびれてしまう」やつ。

 

(この悩みの解決策はこうかな。それともこうかな……あれ、今この人なんて言ってたっけ?)みたいなことがよくある。

 

そういう時、「実際にはそういう理由でも、聞き返したら『真面目に聞いてなかったのね。不誠実な人だな』って思われちゃうんだろうな。まぁ聞き返さなくてもなんとか理解できるだろ」と思って聞き返さないことが多いんだけど、実際にはなんとかならないことの方がずっと多い。

 

2割ぐらいはなんとかなるんだけど、そんな危ない橋は渡らない方がいいに決まっている。聞き返すことこそ誠実なんだから、これからは遠慮せずに聞き返そうと思った。

 

 

 

相手はその話のどこが1番重要なポイントだと感じながら話しているのか推測を立て、なおかつそれが推測だと認識しておく

 

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この話のどこが1番の重要ポイントなのかとかというのが微妙にずれると、「話自体は理解されてるんだけどなんか理解されてないな」みたいな気持ちになったりするんですよ。 

なので話を聞きながら、「この話のどこがこの人は1番重要だと思ってるのかな」っていうことを考えながら話を聞いてみると、聞き方が少し変わりますね。

でもこれ、残念ながら分からないんです。人の頭の中だから。

なので、そうやって相手の頭の中について推測は立てるけど、それが推測だということを持っておくんです。

そうしないと「こうなんだな」と思った時にそれが100%にピッて振り切っちゃって、もう「そういう話」っていう風に聞いちゃいますから。

推測をしてなおかつそれは推測であると認識しておく。そうすると、追加で質問したいことが出てくるんです。

「自分は5割ぐらいこうかなと思うんだけど、本当にそうなのか確認しないと分かんないな」っていう気持ちになってくると、聞きたくなるから聞くでしょ。そこに興味が生まれるわけですよ。ただぼんやり聞いてるとあんまりこういう種類の興味って生まれないですね。

 

また自己認識がバグってると思われるかもしれないけど、これはぼくは割と意識できているんじゃないかと思う(前も言ったように「ちゃんとできているか」は分からない)。

 

ぼくはいつもそういうアンテナを立てながら話を聞き、相手の話が終わったら「つまりこういうことですかね?」と推測を話すということをかなり意識的にしている。

 

この前連投した動画でも、ぼくがそうしたことで依頼者の方に「そうですそうです!まさにそういうことです!」と喜んでもらえた場面があったから、客観的な評価から考えてもある程度はできていると思っていいのかもしれない。

 

でもその回数が少ないのが問題で、例えば20分ずーっと話を聞いてやっと推測を話すということをしていたんだけど、これでは相手は20分ずっと不安だし、推測が間違っている場合長い間修正できない。

 

だからこれからはもっとこまめに推測を話そうと思った。

 

 

 

単語をなるべく言い換えない

 

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この娘さんからすると、自分の父親っていうのは「パパ」なんですよ。そこで「お父様」とかいう風に別の言葉を当てると、自分の言語じゃなくて他人の言語で言葉を聞いて、それを一度自分の言語に翻訳し直さなきゃいけないわけですよね。これって少し負荷がかかる。

一方で子供と同じ言葉で喋れば、子供はその人のことを味方であると思うんですね。

でも違う言葉遣いをすると、何か別の人種、別の人間であるという違いが認識されやすいし、処理をするためには負荷がかかってしまう。賢い人はそれでも変換して理解できるんだけど。

なので、話す人に話すとか考えるとかいうことにメインの力を注いでもらいたいような時には、なるべく相手の言葉遣いに合わせてこっちも会話してあげるーー相手の言葉、相手の言語で喋ってあげるという技術が重要になってきます。

で、そのための1番シンプルな方法というのが、「単語をなるべく言い換えない」。相手が使った単語は相手が使った通りで使うということです。

 

もちろん全部そうした方がいいわけではないんだけど、基本的には同じ言葉を使った方がいいという話に納得した。

 

ワークショップの直前にも同じ話を聞いて「そうしよう!」と思ったのに早速ミスってしまった。癖を直すのは相当大変だけど、都度意識しまくって必ず直す。

 

 

 

話を聞くのは難しい

 

北村さんもケンタさんもおっしゃってたけど、このワークショップの1番の感想はとにかくこれ。

 

物心ついた時からずーっとやっている「聞く」という行為の難しさにどうして今さら気づいたのかというと、「これまでは要約して説明する必要に迫られていなかったから」だと思う。

 

効果的な読書方法に「読み終わった後に内容を要約して誰かに話すつもりで読む」というものがあるんだけど、これをやってみると、「あれ!? 300ページの本を読んだのに内容ほとんど覚えてない!」ということに気が付いて愕然とする。

 

つまりぼくたちはどれだけいい加減に本を読んでいるかということなんだけど、会話も同じなんだということがわかった。

 

聞いた話を十分に理解できていないのに、それを要約して伝えていないから、「理解できていない」ということが理解できていないのだ。

 

普段の会話は実はそういう状況だったんだ、ということを嫌というほど突きつけられる衝撃的なワークショップだった。

 

 

 

学んだ技術を日常で使うのは難しい

 

ワークを学ぶと結構多くの人が、真面目に取り組みすぎるが故に日常生活でもワーク通りに喋り始めるんですよ。異様なんだよ(笑) 

ワークで色々学んだルールとかやり方っていうのは補助輪みたいなものなんです。いつまでも大人になっても補助輪付きの自転車には乗らないよねっていう話であって。

補助やサポートっていうのは、それを使って何かコツを掴むことができれば最後は捨ててしまって構わない。

だから、「マニュアルは最後には必ず捨てるものなのだ」っていうことは頭の中に入れておいてください。

まずは言われた通り試しにやってみる。そうしてやってみた時に感じたり気づいたりしたことを持って帰ってもらえれば、ワークショップで学んだ意味があるかなと思います。

 

これはたぶん思った以上に難しいんじゃないかと思う。

 

まずモチベーションを保ち続けるのが難しい。その時は「よしやるぞ!」って思っても、数日経ったら忘れたり面倒になったりして学んだことを意識しなくなってしまう人は多い気がする。

 

そして意識していても上手に技術を使うのが難しい。

ワークでは「これはこういうことなんですね? 以上です」みたいな感じで思い切り露骨にやっていたけど(笑)、これを自然にやるのはそんなに簡単なことじゃなさそう。間髪入れずに喋りまくったり怒りながら喋ったり色々な人がいるし。

 

でも、難しくても頑張らないといけないなと思う。

ぼくはレンタル話し相手をやっているからというのもあるけど、どういう人生を送るにしたって、コミュニケーションは一生取り続けるものだからだ。絶対に諦めてはいけない。

 

2回目以降も頑張って貪欲に学んでいこうと思う。

 

 

 

(資料引用元)

 

docs.google.com

  

大学を辞めることをやめることにした話

 

 

「なんと言われようとぼくは大学を辞めます。だから来月から、ここでぼくを雇ってください」

 

頭の先からつま先まで一分の隙もなく感じている震えを必死に抑えながら、ぼくは力強くそう言った。

目の前にはぼくを鋭く睨むNPOの代表が、その横には泣きそうになりながら議事録を取る秘書が、そしてぼくの横には大泣きしている母がいた。地獄だった。



明治大学政治経済学部に入学して1週間も経たない内に、ぼくはこの大学を中退しようと決めた。あまりにも授業がお粗末過ぎたからである。

 

どの授業も、遅いテンポで要領を得ずダラダラと一方的に教授が喋り続けるのだ。活字にして要点をまとめれば10分で学べることをなぜ90分もかけて聴かなければならないのか、ぼくには全く分からなかった。

 

なぜこんなにも教授のレベルが低いのか。高校までだって授業が下手な先生はいたが、その中で1番下手だった先生よりも下手な教授がほとんどなのだ。

というかまずやる気がない。生徒の目を見ない、出欠を取らない、毎回10分近く遅れてくる(こちらは1コマあたりいくらの授業料を払っていると思っているのだ。訴えられたって文句は言えないと思う)、などなど、本当に酷い先生ばかりだった。

 

私立大学の授業の実態を知ったぼくはとてつもないショックを受け、仲良くなったあるクラスメイトに不満をぶつけた。

 

「なんでどの授業もこんなに酷いわけ!? 教授のレベル低すぎるだろ!」

 

すると、その友達は涼しい顔でこう言ったのである。

 

「しょうがないよ。教授の主な仕事は研究することであって、教えるのは専門じゃないんだから」

 

意味が分からなかった。なぜそんな人が教鞭を執れる仕組みに日本の大学がなっているのか、そしてなぜその事をこいつは平然と受け入れられているのか。

 

教育は、人と社会を劇的に良くする素晴らしいものである。

高校までの授業で教えられる内容が実生活にほとんど役に立たないものであったのは、大学受験という制度がある以上、仕方がないと思っていた。

でも受験が終わって大学に入った後は、実生活に役に立つ勉強が思い切りできるのだと思っていた。日本教育の真価は大学にこそあるのだと。

 

そう信じて一浪してまで頑張って受験勉強をしたのに、やっと辿り着いた桃源郷がこれかよと思った。ふざけんなと。

国の偉い人たちは、大学がこのクソ低いレベルの授業を垂れ流してるせいでどれだけの損失が生まれているか分かっているのか。「知らない」がためにこの先不幸な目に遭う人がごまんと出るんだぞ。これから国や世界を背負って立つ若く自由な力を無駄にしているんだぞ。

 

そしてそんな仕組みを仕方ないと受け入れているお前はなんなんだ。特別に意識高くなれとは言わないけど、流石にこの惨状には疑問と不満を持てよ。バカなのか。

だが、その友達が特別にバカなわけではなかった。ぼくはそれから同じことを何人ものクラスメイトに言ってみたが、みんな同じ反応だったのだ。全員バカだと思った。

 

そういうわけで、ぼくは入学したその週にはもう中退する決意を固めたのである。

 

さて、この記事を読んでいるあなたはきっと今、こう思っただろう。

 

「確かに大学側にも問題があるのかもしれないけどさ、だからって辞めるのは違うんじゃないの? どんなに質の低い授業からだって学べることはあるでしょ。自分が今いる環境から何か1つでも学び取ろうとする姿勢が大事なんだって。環境が悪いとか言って逃げるような人は、どんなに優れた環境に行ったって何も学べないよ。一生不満言って逃げ続けるのがオチだよ」

 

もう耳タコになった意見だ。色々な人からマジで20回ぐらい聞いたが、この考えは間違っているとぼくは思う。

 

そりゃ、質の低い授業からだって学べることはあるだろう。授業に限らず体験には、それがどんなものであれ学びになる部分は必ずある。

だが、だからと言ってその体験をし続けるのが最善な訳がない。なぜなら、同じ時間を使って別の体験をすればもっと大きな学びが得られるからだ。

 

仮に、ある質の低い授業を90分受けて得られる学びが10だとしよう。だが、その90分を使って例えば本を読めば50とか100とかの学びが得られるではないか。大学なんて基本的に放任主義で内職し放題なのだから。なぜそういう発想にならないのか、ぼくには本当に分からない。

 

質の低い授業から学べることがあるのは分かっていたし、質が低くない授業も少しはあった。だがどんな授業も、自分で学ぶスピードには到底敵わないと思った。

ぼくは勉強するために大学に入ったのだ。世界平和を実現する男がこんなところで4年間も時間を浪費するわけにはいかない。だからぼくは、逃げたいという気持ちからではなく合理的な考えから、大学を中退することに決めた。




とは言え、流石にすぐ辞めるわけにはいかない。ぼくの夢までへの道は無数にあるが、どの道を選ぶか決まりもしないのに辞めたって途方に暮れるだけだからだ。そういう冷静さはあった。

 

最善の道を選ぶために本を読んだりインカレに入ったり色々した結果、ひょんなことからぼくはとある障害者就労支援をするNPO法人インターンシップをすることになったのだが、インターンシップを始めてすぐ「最初の道はここだ!」と確信した。そのNPO法人の代表に惚れたからである。

 

30歳の若さで強力なリーダーシップを発揮し、優しくも厳しく、火傷しそうなほど熱いその男の元で修行したいと思った。数年間そうやって力をつけ、何かしらの起業をする。それが最善最速の道だと考えたのだ。




そういうわけで、大学2年の3月12日に冒頭のシーンになった。定期面談という名目だったが、ぼくの大学中退について話し合う場だった。

 

その日までに代表と約10人の社員全員と母から散々反対されていたにも関わらず、ぼくはこの場で代表も母も説得し、明日にでも大学を中退し、4月からこの法人に雇ってもらおうと本気で考えていた。

思想的にはともかく契約的には、柔軟な法人とは言え来月からいきなり雇用してもらうなんて無理に決まっているのに、なんとかなるだろうという無茶苦茶な考えをしていた。

 

母が泣きながら言った。

 

「あんたには障害があって、父親が外国人で、母子家庭でっていう3つの社会的な不安要素があるの。その上『明治大学卒業』っていう経歴まで無くなったらこれから先絶対に苦労するの」

 

中退してこのNPO法人に就職したいと打ち明けた1ヶ月前にも言われたことだった。それから今日まで、ほとんど口をきかずに過ごしてきた。

 

「だからさ、ぼくは起業するから学歴とか全然関係ないんだって。もし起業できなくて結局どこかに就職しなきゃいけなくなっても、ぼくは中退した理由をちゃんと合理的に説明できる自信があるし」

 

「あんたはそう思ってても、社会は実際にそうはなってないの!」

 

怒鳴る母をチラリと見てから、代表が口を開いた。

 

「大学を続けた方がいい理由は色々伝えてきたけど、全部もういいよ。今日まで俺にあんだけ詰められても負けないってことは、中退しても逃げグセはつかないだろうしね。

でも、お母さんが反対してるなら絶対に駄目だよ。大学は続けなさい。大学に行きながら同時にここで修行すればいいじゃん。卒業したら正式に雇うって約束するから。なんでそれじゃ駄目なの?」

 

「ですから、大学に拘束される時間が無駄なんです!」

 

ぼくは即座に言い返した。

 

「ぼくは将来多くの人を助けるんです。仮に1年間に1万人を助けられるようになるとして、2年間遠回りしたら2万人が不幸になる! だから、母は大好きだしできれば大切にしたいけど、たった1人の母のために2万人を犠牲にするわけにはいかないんです!」

 

常人にはおよそ理解できない思考だろうが、当時のぼくは本気でそう考えていた。だから焦っていたのである。

 

また母が泣きながら言った。

 

「お母さんにとってはそんな存在するかも分からない2万人より、あんたが大切なの! 何十年後かにあんたの言うことが本当だったって分かったらお母さんは土下座して謝るわよ。だから今はお母さんを恨んでもいいから、大学だけは卒業しなさい」

 

流石に、もう無理だと思った。どう考えてもこの場で母と代表を説得できるとは思えない。

中退自体を諦めたわけではなかったが、少なくともこの場は引くべきだと思い、ぼくはしぶしぶ口を閉じた。面談は終わった。



帰り道は本当に最悪の気分だった。

なんとか気分を紛らわせようと、ぼくは自分にとって1番のストレス解消になる場所に行った。漫画喫茶である。


ぼくは壁にぶち当たった時、しばしば物語に救いを求める。物語に出てくる生き様やセリフなどによって、その時の悩みがパッと解決することがよくあるからだ。

どこかに今のぼくを救う物語があるだろうか……。
そう思いながら本棚を眺めていると、あるタイトルに目が留まった。

 

罪と罰』である。

 

言わずと知れた、人の業を書いたドストエフスキーの大作。

原作の小説を読んだことはなかったが、『マンガで分かる』シリーズで非常にコンパクトにまとめられた漫画を読んだことならあった。

 

その内容はぼんやりとしか思い出せなかったが、なんとなくこの漫画を読んでみることに決めた。理屈では説明できない直感が働いたのかもしれない。

 

昔のロシアではなく現代の日本バージョンにアレンジしたその漫画は、ぼくが読んだ『マンガで分かる』シリーズよりもずっと丹念に書かれており、あまりのリアルさにあっという間に没入した。

 

この漫画の凄いところは、とにかく主人公のキャラクターにある。

彼は平凡に暮らしている大学生なのだが、「自分は本当はとてつもない能力と可能性を持った選ばれた人間なんだ」と強烈に信じており、そのことを示すために売春を斡旋している極悪女子高生を殺害する。

しかもそれだけでは済まず、その現場を目撃した罪のない女子高生をも殺してしまうのだが、なんと一切悪びれないのだ。

 

「悪を成敗した自分は間違ってない。罪のない女子高生を殺してしまったのも仕方がなかった。だってそうしなければぼくは確実に捕まっていたんだから。これから誰よりも偉くなり世の中を良くしていく自分が捕まってしまうのは社会の損失じゃないか!」

 

ぼくはこの男を、最低な人間だと思った。罪のない人を殺しておいて悪びれないなんてどうかしている。気味が悪いとさえ思った。

しかし、漫画を読みながら、ふと気がついたのである。

 

 

ぼくもこの男と同じじゃないか、と。

 

 

もちろん、ぼくは殺人なんて絶対にしない。だが違うのはそこだけで、「自分は社会を良くする有能な人間なんだから自分の未来の為なら誰かを傷つけてもいい」と考えている部分は全く一緒ではないか。

 

いや、そう考えてもいい場合があるとは思う。例えば会社を辞める時なんかはそう考えなければ無理だろう。

だがそういう場合でも、自分がかける迷惑や他人の痛みに謙虚に心を痛めながらそうするのと、ほとんど心を痛めずに傲慢にそうするのとでは全く違うのではないか。行動は同じでも、両者のその後の人生は天と地ほどに違ってくるのではないか。

 

漫画喫茶の個室で、ぼくは自分の心を見つめ返してみた。最近のぼくには、傲慢さがなかっただろうか?

 

 

大いに、あったと思った。

 

 

大学の授業に疑問を持たない学生を全員等しくバカだと決めつけ、その人たちにもその人たちなりの考えや葛藤があるかもしれないと想像しようとしていなかった。

 

毎日必死に働いているNPO法人の代表を尊敬しつつも、30歳にもなってこんな小さな組織でしか働けないのかと見下していた。

 

母がどれだけの想いでこれまでぼくを育ててくれたのか分かろうとしていなかった。母がぼくの将来を心配する気持ちには、汲む価値がないと思っていた。

 

あまりの自分の愚かさと恐ろしさに、気がついたら涙が出ていた。

天井を見上げながら、ぼくは思った。

 

 

このままお母さんを泣かせて大学を中退したら、ぼくはろくな大人にならないなぁ……。

 

 

何十年か先、もし本当に毎年のように何万人、何十万人救えるようになったとしても、その時のぼくの心はひどく曲がっているだろうなぁ。その曲がりを直すことはたぶん二度とできないだろうし、そんなねじ曲がった人が救える人の数は、結局限られてしまうだろうなぁ……。

 

今度は『罪と罰』の主人公を見つめながら、思った。

 

 

大学は続けよう。

 

 

学生のうちに色々勉強しておいた方がいいとか、お金が絡まない経験をたくさん積んでおいた方がいいとか、色々な人に色々なことを言われたけど、そんなこと全部関係ない。大学に通い続けるのは効率が悪いという考えも変わらない。

 

今あるぼくの傲慢さを直すため、そしてぼくの将来を心配する母の気持ちを汲むために、大学は卒業しよう。

 

漫画喫茶の個室でぼくは一人、十分ほど泣き続けた。

 

 

 

家に帰ると、お母さんがぼくに背を向けて台所に立っていた。

ぼくは深呼吸をしてから、「お母さん」と明るく言った。

 

「やめることにしたよ。大学を辞めるのは」

 

お母さんは振り返り、パッと笑顔になる……かと思いきや、憤怒の表情になり大声で怒鳴った。

 

 

「紛らわしい言い方をするのはやめなさい!」

 

 

ドラマみたいな言い方が通じるのは、ドラマの中だけらしいと学んだ。

 

 

 

その後ぼくは、イエスマンキャンペーンをやってみたり学生起業を目指してみたり、卒業まで色々な経験をした。

NPO法人インターンシップは試しに1回休止してみると、急に視野が広がり、やっぱりあのNPO法人に就職するのはぼくの夢への最善の道ではないと思い直した。もちろん素晴らしい会社だったけど、やはり非常に狭い視野に囚われていたなと思う。

 

人間関係も目に見えて変わった。母との関係が元通りになったのはもちろん、所属していたインカレや高校時代から付き合い続けている友達との関係が急に劇的に改善したのである。

 

それまではぼくが尖りすぎて問題を起こしまくり、かなり嫌われていたのだが、大学を続けることに決めた途端に急にみんなから好かれるようになった。自然と丸くなったんだと思う。

 

そして肝心のぼくの夢だが、道を順調に進んでいるかというと全くそうではない。

学生起業は諦め、学生最後の挑戦だった小説は失敗に終わり、卒業してから一流企業に勤めたものの4ヶ月で辞め、インフルエンサーを目指しているものの2年間結果が出せていないという散々な道を歩いている。

 

だけど、大学で得た経験も大学卒業後の経験も全て必要なものだったと思っている。これは負け惜しみでもこじつけでもなく本当に、全ての経験が糧になっていると実感しているからだ。あの時大学を辞めていたら、ありとあらゆる貴重な経験を得る機会を失っていただろう。

 

大学1年生の時、高校時代の恩師にこう言われたことがある。

 

「人生は長い。焦るな」

 

その時は全くピンと来なかったが、今は、この言葉の意味がよく分かる。