「与えられた課題に取り組む習慣」を身につけるために宿題をするべきか?

 

今話題の不登校問題に対して自分の意見を言った動画が軽くバズりました!

 

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※要約すると 

「学校で学べることは学校の外でも学ぶことができるし高卒認定試験を受ければ学歴も好きな時に手に入れることができるから、学校に行かなくても人生はどうとでもなるよ」

ということを言っています。

 

 

バズったおかげでコメントがめちゃくちゃ来てここ数日はその返信にずっと追われているのですが、その中でこんな意見がありました。

 

「この動画の意見には概ね賛成なのですが、『習慣』の問題が気になります。子どもに宿題を課す理由には、「出された課題をコンスタントに提出する習慣を身につけさせるため」というのが大きいはずです。子どもの時にその習慣を身につけていないと、大人になってから高卒認定試験の勉強をしようと思ってもかなり苦労するのではないでしょうか?」

 

これは動画で全く語っていませんでしたしあまり考えてもいなかったので、とても良い視点だなと思いました!

 

「知識」は後からいくらでも得ることができますが、「習慣」は小さい頃にほぼ出来上がり大人になってから変えるのは極めて難しいものなので、確かに「どうとでもなる」とは言えないですね。

 

数日かけてこの問題について考えてみたところ説明がかなり長くなってしまい、また一般的にも伝えたいことなので、このブログでお話します!

 

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まず、不登校の人には大きく分けて、

 

①いじめなどによる「気力低下タイプ」

②型にはまることを嫌う「型破りタイプ」

 

という2つのタイプがあるとぼくは思っています。

 

「気力低下タイプ」は学校に行かないことに信念を持っているわけではないので、休養や転校によって気力が回復すれば学校に行くし勉強もするでしょう。逆に言えば辛い状況にあるうちは宿題をすることなんてできないでしょうから、気力の回復を待つしかありません。

 

「型破りタイプ」は(ぼくもこのタイプなのでよく分かるのですが)周りに合わせることや興味のないものを強制されることを極端に嫌います。「この型は何のためにあるの?」と考えてしまい、様々な型にはめようとしてくる学校にストレスを感じるのです。

 

ゆたぼん君のような型破りタイプの子は、宿題を課されるとこう思います。

 

「これが一体なんの役に立つんだ? 何のためにやるのか分からないものに、どうしてみんなは言われるがまま取り組めるんだ?」

 

それで、例の「ロボットに見えた」発言が出たのでしょう(ちなみにゆたぼん君のお父さんのブログによると、ゆたぼん君は後に「「オレがそう見えただけでその子たちも何かで悩んでいると思う」と言っているそうです)。

 

こう思ってしまうと、もう宿題には取り組めません。普通の人なら「よく分からないけどとりあえずやっとくか」と折り合いをつけるところを、「納得できないものはやらない」となるのです。

 

ワガママだと思うでしょうか? たぶん多くの人はそう思うでしょう。

何故なら、「出された課題にコンスタントに取り組む習慣を身につけるために宿題はやらなければならない」と思っているからです。

 

確かに「出された課題に取り組む」という力は生きていく上で非常に重要ですが、ゆたぼん君は実は「課題」をやりたくなかったわけではありません。「何故やるのか分からない課題」をやりたくなかったのです。

 

ここでまた多くの人は、「やる意味は後で分かるよ。大人になってから分かるのじゃ遅いから、子どものうちはよく分からなくてもやらなきゃいけないんだよ」

 

と思うでしょう。

 

でも、そうとも言い切れないみたいなんです。

今、学校の勉強や宿題の効用について様々な人が疑問の声を上げ始めています。

 

「学校の勉強は実生活にあまり役に立たない」「分からないことがあればスマホで調べればいい」「学校外のプライベートの時間にまで勉強を強制させるなんておかしい」「宿題は成績向上に繋がらない」……。

 

宿題への否定意見についてはこの記事が分かりやすいので、もし余裕があれば目を通してみてください。

 

www.itmedia.co.jp

 

「宿題は本当に無駄であるか」ということについては、ぼくは今ここでは言及しません。あまりにも長くなってしまうし、少なくとも現時点ではその白黒をつけなくてもぼくの言いたいことは伝えられるからです。

ひとまず「そういう意見もある」ぐらいの認識をしていただければと思います。

 

さて、ゆたぼん君は先ほどの記事並みに深い思考の上で宿題を放棄したのでしょうか?

まだ10歳の子どもですから、もちろんそんなわけはないと思います。

 

でも、「何の意味があるんだろう?」とは思ったのでしょう。それはおそらく、「宿題をしなさい」と言った担任の先生が、宿題をする意味については教えなかったからです。

教えなかったのならば訊けばいいじゃないかと思うかもしれませんね。ゆたぼん君のお父さんのブログでその点についての記述はまだ見つけていないので、そこは分かりません。

 

でも、もしその質問をしたとしても、説得力のある答えを言える先生は多くないだろうと思います。

ぼくは子どもの時、「学校の勉強って何のためにするんですか?」と多くの大人に訊いてきましたが、納得のいく答えを得られたことはありませんでしたから。

 

話を戻します。

とにかくゆたぼん君は、「何故やるのか分からない課題」をやりたくなかった。これは裏を返せば、「何故やるのか分かる課題」にはきちんと取り組むということです。

 

だから、宿題を放棄したまま大人になり壁にぶつかってやはり学歴が欲しくなった時、問題は特に起こらないと思っています。何故ならその時は、勉強に意味を見出しているだろうからです。

 

勉強そのものに深い関心を持っているかもしれませんし、そうはなっていなかったとしても、「良い仕事に就くためには学歴が必要だ」と思ってさえいれば、その過程に必要な勉強を「やらなければならないもの」だと認識できるのです。

 

欠落しているノウハウは、家庭教師を雇ったり、自分で本を読んだりして学ぶことができるでしょう。

 

型破りタイプには、「自分が興味を持ったものや意味を見出したものには一生懸命取り組める」という特徴があります。

そして、「自分で『やるぞ!』と決めたことに懸命に取り組む」習慣は(ゆたぼん君の場合はYouTubeや講演会など)、むしろ人並み以上に身についているのです。

 

だから、1度その気になりさえすれば周囲も驚くほどのスピードで勉強を進められるだろうと思います。

 

 

さて、こうなると次は、

 

「じゃあ勉強はそうだとして、その先の仕事はどうするの? 仕事では『何故やるのか分からないこと』や『やりたくないこと』をやらなきゃいけないじゃん!」

 

と思うでしょう。

 

おっしゃる通りです。誰かに雇われる以上、やりたいことだけをやるということはできません。

でも、「何故やるのか分からないこと」や「やりたくないこと」の割合が少ない職場というのはあります。そういった職場を見つけて、ガマンするべきところを少しだけガマンしながら、やりたい仕事に精を出せばいいのです。

 

やりたいことだけで生きていけるほど何かに突き抜けてはいない中途半端な型破りタイプはそれくらいの折り合いをつけることができるし、全く折り合いがつけられないほど極端な型破りタイプはきっと何かに突き抜けているので、誰かに雇われずに自分の力でお金を稼いでいくことができるだろうと思います。

 

以上の理由から、「宿題を提出するという習慣を子どものうちに身につけていなければ大人になってから苦労するのではないか」という心配はあまりしなくても良いとぼくは考えています。




また、実を言えば、「宿題を提出するという習慣」は逆にマイナスに働く場合もあるとも思うのです。

 

宿題には「何故やるのか(ほとんどの人は)納得のいく理由を説明されていない」「強制させられている」という側面があります。

 

そのため宿題をやることには、「何故やるのか分からないことに疑問を挟まずに取り組む習慣」や「受動的に物事に取り組む習慣」が身についてしまう恐れがあると思うのです。

 

宿題だけではありません。

基本的に一方通行の授業、実生活にあまり役に立たない知識、時代遅れの校則など、学校にはその恐れを誘発するものがたくさんあります。

 

たぶんこれには多くの人が、「そんな穿った見方をするなんて!」と強い反発を感じるでしょう。

でも、「『何故やるのか?』と疑問を挟める人」や「能動的に物事に取り組める人」が実際どれほどいるでしょうか?

 

世の中には、

 

命じている人も従っている人も「やらなきゃいけないから」と思考停止してしまっている無意味なルールや仕事があります。

解決方法を調べれば済むことなのに調べることをせず、いつまでも悩みを抱えたままの人がいます。

ダイエットをしようと決めても、毎日ノルマを決めて自分のペース配分で取り組み続けられない人がいます。

 

これらには、「自分で考え行動する力」を身につけさせることに重きを置かず、むしろその力を奪いかねない教育を行っている、学校に大きな責任があると思うのです。

 

 

もちろん、全てがそうであるわけでは決してありません。

学校という枠の中で、自ら考え行動することを教えている教師や、勉強に確固たる意味を見出して励んでいる生徒もいるでしょう。

でも、全体で見るとそういう人はかなり少ないのではないでしょうか?

 

学校に行かない人にも、学校に行っている人にも考える余地があります。大事なのはバランスです。

 

【現状で必要とされている型にある程度はまりつつ、同時に、自分で考え行動する力を養っていく】

 

これが理想的な生き方だとぼくは思います。

 

ゆたぼん君は明らかに後者の方に行きすぎですが、彼は型破りタイプですからたぶんあまり問題はないし、前者の方に偏重している現代社会へのカウンターとしては有意義な存在ではないでしょうか。

もっとも、ゆたぼん君親子には怪しく見える点や足りない主張が多すぎて(最近はお父さんが必要な補足をしてくれています)、狙いとは逆方向に世論が動いてしまっていますが……。

 

でもこうやって、多くの人が今まで信じていた常識を見つめ直し、考えを深め合っていくのはいいことですね。

 

当然ぼくにも足りない視点や間違っている考えがある筈ですから、疑問や反論があったらなんでも遠慮なく言ってください。

 

こんなに長い文章を最後まで読んでくださりありがとうございました!