23歳童貞が風俗店に行って風俗嬢に指一本触れずに爆笑させて帰ってきた話
社会人1年目の5月、大量の初任給を手に入れたぼくは人生初の風俗店に行った。
エロいことをするためじゃなく、社会見学のためだった。
嘘じゃない。マジでガチで社会見学のためだけに行った。
ずっと前から風俗の世界に興味があり、働いている人と直接話をしてみたかったのだ。
「社会見学をしたいのが本当だとしても、エロいこともしたいんだろ?」
誰もがそう思うだろうが、それは明確に否定しておく。性的なことをするつもりは本当に一切なかった。
別に、女性に興味がないわけではない。ぼくはそういう欲求は普通に持っている。
じゃあなぜ風俗店に行くにもかかわらず、性的なことをするつもりがないのか?
それは、
「自分の初体験は彼女に捧げる」と決めていたからだ。
そう、ぼくはこれまで1度も性行為をしたことがなければ彼女ができたことすらない、
23歳にもなって、女の子に指一本触れたことがない純度100%童貞なのだ。
なぜこんなことになっているのか、本当に分からない。ぼくには確かに変わったところがたくさんあるけど、普通に社会生活を送り多くの人と良好な人間関係を築いてきた人間だ。
延々と話せるぐらい仲の良い女の子友達だって7人もいる。なのになぜ彼女が1度もできたことがないのか、この世の最大の謎である。
さて、23年間も性体験がない男はどうなってしまうのか、想像がつくだろうか?
そう、童貞をこじらせてしまうのだ。
23年間も取っておいたのだから、初めての体験は最高のものにしたい。心から愛し合う最高に素敵な彼女と、理想的な営みをしたい。
一心にそう願い続けてきたので、愛し合っていない風俗嬢と初体験を済ませるわけには絶対にいかなかったのだ。
以上の理由から、ぼくはどんなことがあっても風俗嬢には指一本触れないと固く心に決めていた。
めちゃくちゃ緊張しながら受付を済ませ案内された部屋で待っていると、
「はじめまして〜。アイです」
とにこやかに言いながら推定年齢24歳ぐらいの女性が入ってきた。
なんと銀髪である。ギャルっぽくてぼくのタイプではなかったが、すごく綺麗な女性だった。
ぼくは間髪入れずに言った。
「あの、ぼくは社会見学的な目的で来たので、何かするつもりは一切ありません! なので何もしないでください! お話だけでお願いします!」
ここで「はぁ?」と言われ引かれることを覚悟していたが、アイさんは意外にも、「そうなんだ〜。分かった!」とにこやかに言ってくれた。めちゃくちゃ話しやすそうないい人だな、とホッと胸をなでおろした。
それからこのお店に来た経緯などを話し始めたのだが、話しながらぼくはふと、視線を少し下に向けてみた。その動作に特にいやらしい目的はなく、どんな服を着てるのか確認したいぐらいのつもりだった。
しかしぼくは、ある一点に視線が釘付けになってしまった。
おっぱいである。
ほんの数十センチ目の前に、おっぱいがあるのである。もちろんキャミソールでしっかり隠れているのだが、それは今までのおっぱいとは全然違うことにぼくは気づいたのだ。
そう、これは、揉んでもいいおっぱいなのである。
ぼくはこの時初めて、世の中には2種類のおっぱいがあることに気が付いた。
揉んでもいいおっぱいと揉んではいけないおっぱいだ。
ぼくが今まで生で見てきたおっぱいは全て、揉んではいけないおっぱいだった。
触りたいという衝動があるのに絶対に触ってはいけない、触った瞬間に人生が終わる禁断のおっぱいだったのだ。
しかし、今目の前にあるおっぱいは違う。
ここは風俗店だ。8000円という大金を払ってこの店に入ったぼくには、対価を受け取る権利がある。今目の前にあるおっぱいは紛れもなく、揉んでもいいおっぱいなのだ。
「どうしたの?」
アイさんの問いかけに、ぼくはビクッと我を取り戻し、アイさんの顔に視線を戻した。
「すみません……。目の前にあるのが揉んでもいいおっぱいだと思ったら急に冷静じゃいられなくなってしまって……」
アイさんは声をあげて笑い、こう言った。
「揉む?」
揉む?????
ぼくは耳を疑った。生で生まれて初めて聞いた言葉だった。
今までは絶対に揉んではいけないものだったおっぱいを、女性が、しかもとびっきり綺麗な女性が、「揉む??」と笑顔でぼくに聞いてくれているのだ。そんなことがあっていいのだろうか?
この言葉により、目の前のおっぱいの「揉んでいい度」は格段に上がった。
さっきまでは単に「お金を払ったから揉む権利がある」程度だったが、今は違う。
アイさんはぼくの「何もする気はありません」宣言をしっかり聞いたのだ。それにも関わらずこう言ってくるということは、「お金のために嫌々揉ませている」わけではないということだ。
それでも、一応訊かなければならない。
「あ……あの、素朴な疑問なんですけど、嫌じゃないんですか……?」
「うーん、割り切ってるからね。なんとも思わないかな」
割り切ってる。すごいことだ。ぼくが今まで会ってきた女性はみんな自分の体をすごく大切にしていた。分別のつかないクソ男子に頭をポンポンされただけで嫌がっていた。お金をもらえるからといって、人間そんなに割り切れるものなのだろうか。
どうしようどうしよう。ぼくはアイさんのおっぱいを見つめながら、またしても重大なことに気づいた。
そうか、これは「揉んでもいいおっぱい」であると同時に、「見つめてもいいおっぱい」なんだ。
今まで出会ってきたおっぱいだったら、見つめ続けただけで変態の烙印を押されただろう。だけど今は違う。穴が空くほど見つめ続けててもなんとも思われないのだ。
ぼくはアイさんのおっぱいを見つめながら考えた。揉むべきか、揉まないべきか……。
ーもう、いいんじゃないか?
心の中で、悪魔の声がした。
ー何をためらうことがあるんだ。目の前に法的にも倫理的にも揉んでいいおっぱいがあるのに、揉まない男がどこにいる。
いや、だけど……。ぼくには鉄壁の理由があるんだ……!
ー初体験は彼女にって? そんなこと言い続けて、一体いつ彼女ができるんだよ? このままじゃお前、30になっても童貞だぞ。
でも……。
ーお前は今までよく頑張ったよ。人並みの欲求があるくせに23年間、セクハラやストーカーなどはもちろん、手スリスリや頭ポンポンすらせず、ここまでよく潔癖を貫いた。十分すぎるぐらい頑張ったんだから、もういいじゃないか。
そうか……。確かに我ながらよく頑張ったよな……。もう、いいか……。
そう思いアイさんのおっぱいへ手を伸ばしかけた時、さっきとは別の声がした。
「タカシ、初めてじゃないんだ」
それは、未来の彼女の声だった。
そう、ぼくが初体験を彼女に捧げることにこだわっているのには実はもうひとつ別の理由があった。
それは、ぼくの彼女ならきっと、2人の初夜が来る時までぼくが初体験を大切に取っておいたことを喜んでくれるだろうと思っていたことだ。
この「彼女」だが、実は具体的な人をイメージしていた。
当時ぼくは女優の志田未来が大好きでいつか絶対に彼女と付き合うと決めており、というか、脳内ではすでに付き合っていた。
志田未来がガッカリする姿が浮かんだ。
「タカシの初めては、私のために取っておいて欲しかったな」
未来の彼女というか彼女の未来が、そう溜め息をつくのが聞こえた。
そうだよね、未来。未来とのその時のために、このおっぱいは揉まないでおくよ。
ぼくは心の中でつぶやき、やはりおっぱいを揉まないことをアイさんに宣言した。
それからはタイマーが鳴るまでの間、どうしておっぱいを揉まないことにしたのか、志田未来と脳内でどう言う風に付き合っているのかなどをアイさんに話して聞かせた。
アイさんの反応はというと、爆笑だった。
「実はこの前1回別れたんですよ」
「え!?脳内なのに!?」
「はい。未来がキスしたいって言ってるのに、恥ずかしくてぼくが拒んじゃって……」
「ちょwww 待って、ヤバすぎwwww」
こんなやりとりをしながら、ぼくは懐かしい幸福感に包まれた。
レンタル話し相手のアカウントではまだそういうキャラを出していないが、ぼくは実はONE PIECEのサンジのような性格も持っていて、性や恋愛感情についてあけっぴろげに話すことをよくするのだ。
あまりにオープンにしすぎるために「気持ち悪い」と言われることもあるけど、なんでそんなことをするかというと、オープンにした方が平和だと思っているからだ。
人間なんてどうせエロいこととか変なこととかを考えてる生き物なんだから、それを下手に隠して溜め込むよりも、明るく発露した方が性欲や恋愛感情についてみんながプラスイメージを持てるようになるのではないかと考えている(もちろん、場や程度などについては本当によく考え見極めなければならないけど)。
しかし入ったばかりの会社でいきなりそんなキャラを出せるわけもなく、この数週間はずっとクソ真面目に振舞って窮屈な思いをしていた。
久しぶりに遠慮なくこういう話をして、お腹がよじれるほど人を笑わせている。
8000円も払って入った風俗店で一体ぼくは何をやっているんだろうとも思ったけど、ぼくにとっては性行為をするよりもずっと、気持ちのいい時間だった。
退出する時、アイさんは「マジで楽しかった!」とたぶん心から言ってくれた。今も元気でいてくれてるといいなと思う。
ちなみにこの約4ヶ月後に志田未来さんはぼくではない一般男性と結婚してしまった。なんという裏切りだ……。
今はもう異性として好きな人はいない。
彼女、募集中です。
【相談】親につけられたキラキラネームが嫌なのですが、改名したら家を追い出されるかもしれません→専門のNPOに相談しましょう。
ナナさん(仮名,女子高生,東京)からの相談です。
親からつけられた名前がすごく変なキラキラネームで、そのせいで虐められたりからかわれたり、ずっと嫌な思いをしてきました。
大学へは違う名前で入学したいので高校生の内に改名したいのですが、名前を変えるためには「改名する必要がある」と裁判所を納得させる材料を用意しないといけないらしくて……。
色々調べたんですけど、どんな材料をどれぐらい集めなければならないのかよく分かりません。
それと、親は基本的には優しいのですが、名前のことに関しては信じられないほど頑固で厳しくて……。
私がどれだけ泣いて訴えても「一生懸命考えてつけた名前なんだから」と言って改名を許してくれないので、もし勝手に改名したら家を追い出されるかもしれません。
泊めてくれる親戚もいないので、そのことも悩んでます。どうすればいいでしょうか?
自分の大切なアイデンティティである名前がすごく変なものであるというのは辛いでしょうね……。
いくら一生懸命つけた名前でも、子供がそれで本当に辛い目に遭っていると分かれば変えさせてあげるのが本当の愛情だと思います。
そんな大変な中、状況を変えるために自分で色々と調べ行動されていて偉いですね!
さて、ぼくからのアドバイスですが、専門的な知識や経験を持つ大人に相談した方がいいと思います。学校の先生など身近に頼れる人がいなければ、世間の大人に頼ってみましょう!
弁護士なんかはハードルが高いですが、たとえばNPO法人や国の公共機関なら相談するハードルは低いと思います。
たとえばどういうところがあるんでしょうか?
今一瞬調べてみただけですけど、たとえばこんなところがあります!
ぼくはこのNPO法人のことを全然知らないのでオススメできるわけではないですが、要は「こういう相談窓口が世の中にはあるよ」と知っておいて欲しいです!
あと、こんなwebサイトがありました!
カテゴリや条件(家庭問題,電話で相談など) を打ち込めば、その条件に合わせた相談窓口の一覧を表示してくれるみたいです。ほとんど無料みたいですし、ここで色々と探してみるといいと思います!
へー!こんなのあるんですね。全然知らなかったです!
日本には意外とたくさんの救いの手があるので、困ったらとにかく検索してみることが大事です!
ところで、こういうところを実際に利用するにはけっこう勇気が要ると思うのですが、そこは大丈夫そうですか?
はい!私は勇気とか行動力とかはあるので、それは大丈夫です!
それなら良かったです!
じゃあここからは、頼れる職員が見つかってからの話をしますね!
職員の方には、改名するために必要な材料について教えてもらう他に、「親を説得する方法」を相談してみてください。
え……。私がどんな方法で説得しようとしても一切変わらない親なので、それは意味ないと思うんですけど……。
そうかもしれませんが、説得というものには本当に色々な技や方法があるので、もしかしたら親御さんに効く手があるかもしれません。
一番いいのは、職員の方に親御さんと直接話してもらうことだと思います。自分以外の人からの説得はかなりの効力を持つ場合があるので、できたらそれをお願いしてみてください。
分かりました。
どうしてこんなことを言うかというと、家族と縁を切ってしまうと、精神的にも経済的にも想像以上に大きな打撃になるだろうと思うからです。
ひどい虐待をされているといった場合なら別ですが、お話を伺っていると、親御さんは名前以外のことに関しては基本的に優しいし、ナナさんの方から積極的に縁を切りたいわけでもないのですよね。
であれば、もう本当に打つ手が一切ないと思えるギリギリまでは、家族と縁を切らないようにする努力をした方がいいと思います。特にナナさんはまだ高校生で、家族の支えなしで生きていくのは極めて困難なので。
やっぱり1人で生きていくのって難しいんですかね?
難しいですよ! ぼくも最近生まれて初めて一人暮らしを始めましたが、かなり大変です。
とは言え家族に守られている状態ではその大変さを実感することは難しい筈なので、「親元を離れること」と「1人で生きていくのに必要なお金を稼ぐこと」を期間限定でしてみることをオススメします!
え、高校生の内にですか?
家を追い出されるかもしれないことを高校生の内にやろうとしているなら、今やった方がいいと思います。
本当の困難さは、経験してみなければ分かりません。
両方を体験してみてその大変さを実感したら、親御さんをどれぐらいギリギリまで説得するべきなのか、改名を本当に決行するべきなのか、より本気で考えられると思います。
分かりました。少し考えてから色々と試してみます。
ありがとうございました!
どうなるにせよこれから困難が待ち受けていると思いますが、応援しています。頑張ってください!
このナナさんからは後日、「親が急に改名を許してくれました!」と報告が来ました!
結局NPOなどには行かなかったようですが、よかったです!!
ぼくはなぜ誰からも認められなかったのか?
ぼくは並外れた論理的思考力を持っていると自負している。
ぼくの思う論理的思考力とは、
「筋道に則りながら延々と深く考え最善の答えを導いたり、複雑な事柄を分解し分かりやすく説明したりする能力」
のことだ。ぼくはこの能力に極めて長けている自信がある。
だが、ぼくのこの能力はこれまで、ほとんど誰にも認められてこなかった。
認めてくれた数少ない人たちに失礼になってしまうから「ほとんど」と言うけど、実感としては「全く」と言いたいぐらい、本当に誰からも認められてこなかった。
それがぼくは、本当に悔しかった。
ぼくには幸いにも、親しい人がたくさんいる。概ねみんなぼくのことを好いてくれているし、優しい人だとか面白い人だとかも、たぶん思ってくれているだろう。
それだけでも有難いということは分かっている。だけど、そうじゃないのだ。今のぼくはもう、それだけでは全く満足できないのだ。
優しい人とか面白い人とかじゃない。ぼくは、「すごい人」だと思われたいのだ。「頭いいんですね」と言われたいのだ。
尊敬されたい。偉くなりたい。人望が欲しい……。ずっとそう切望していた。
さて、今、ほとんどの人はこう思っているだろう。「どんだけ自信家で欲まみれなんだ。もっと謙虚に無欲に生きないとダメだろ」と。
だがぼくは、世間で広く信じられているその良識に異議を唱えたい。 自信や欲を持ったり、そのことを公言したりすることの一体何が問題なのかと。
「だって、自省できなくなったり、利己的になって他者を蔑ろにしたりするだろ」
こういう意見が出てきそうだが、果たして本当にそうだろうか?
「自信を持つこと」と「自省すること」は全く別の概念だ。自信が無い上に自省もできない人がいるように、自信を持ちつつ自省することは普通にできるのではないだろうか?
偉くなりたいなどという欲求があるのは人間として自然なことだ。他者を損ねることなく自身の欲求を満たすようにすれば何の問題もないのではないか?
また、自信や欲を公言することによって、信頼を得たり世の中の間違った認識を改めることができるのではないだろうか。自信のない歯科医に自分の歯を抜いてもらいたいと思う人がいるだろうか?
以上のような思考から、ぼくは基本的に、誇るべき能力を謙遜したり満たしたい欲求を隠したりしないと決めている。理解してもらえると幸いだ。
ちなみに、これがまさに「論理的思考力」である。
(話の流れから自然に自分の論理的思考力を証明するという離れ業である)
ぼくはこのように自分の考えを語るのが好きで、そうすることが許されているあらゆる場で今のような話をしてきた。
自分の筋道だったロジックにみんな感心してくれるに違いないとぼくは思っていたが、実際はどういうわけか、全くそうならなかった。
核心を突いたことを話しているつもりなのに、誰もその言葉に価値を見出してくれないのだ。めんどくさいことを言ってるなと煙たがられたり、バカなことを言っていると否定されたりしてばかりだった。
言いたいことが山ほどあるのに、自分の言葉が誰にも届かない。
この悔しさや虚しさが分かるだろうか?
この6年間ぼくはずっと、そんな堪え難い孤独の中にいた。
さて、なぜそんな状態が続いたのだろうか。
論理的思考力に長けていると思っているのは自分だけで、本当はバカだったからだろうか?
それは違うとぼくは思う。
この記事で書いた、「本当は高いポテンシャルを持っているにも関わらず不当な評価を受けている場合」に該当していたからぼくは認められなかったのだ。
では具体的にどういう理由で不当な評価を受けてきたのか? 長い間一人で考えてきたその分析結果を今ここで発表しようと思う。
なぜ今かというと、ぼくはおそらく今日(予定よりだいぶ遅くなってしまったが)、上記のブログで宣言した「フォロワー1000人」を達成し、大勢の人から注目される人になるだろうからだ。
そして1ヶ月も経つ頃には、ぼくの論理的思考力を多くの人が認めてくれるようになるだろうからだ。
この分析結果は認められてしまう前に言う方がずっと面白いので、今発表する。
なぜぼくは認められなかったのか?
①ズレていたから
「ズレ」というのは何も悪いものばかりではない。ここで言う「ズレ」は、良いものの方だ。
ぼくの主張には逆説的なものが多く、「みんなこう考えてるけど、本当はこうじゃない?」ということをよく言う。
これは何故か? ドラゴン桜の外伝である『エンゼルバンク』という漫画が分かりやすく説明しているので紹介しよう。
こういうわけで、成功者は必然的に世の中の多数派とは真逆の考えを持つことになる(もちろん、王道を行き成功する人もいる)。
これは数多の成功者を調べていけば自明なこの世の真理であり、「誰にも理解されない時期がある」というのは、昔も今も成功者の宿命なのだ。
だがぼくは、逆説的ではないことを言うこともたくさんあった。
それでも認められることがなかったのには、2つ目の理由が関係している。
②ナメられていたから
これがぼくは大きかった。ぼくはこれまで本当にナメられまくっていた。
その原因はいくつかある。
・見た目も喋り方も子供っぽい上にボケまくるから。
ぼくは身長が161cmしかないし、高い声で子供っぽい喋り方をしてしまう。たぶん何を話しても、まるで小さいヒナ鳥がピーチクパーチク言ってるようにしか聞こえないのだろう。
また、息をするように常にボケてしまう(自制できない)という厄介な性質もある。
「頭いいのにボケてるギャップが素敵」と思われているのだと思っていたのだが、単に「バカがバカをやってる」と思われているだけだったようで、ナメられる原因になっている。
・バカな部分は本当にバカだから。
論理的思考力に長けすぎていることによる副作用なのか、ぼくには驚くほどバカな部分が多くある。もうこれは仕方ないと半分諦めている。
・変態っぽいから。
レンタル話し相手のアカウントではまだそういうキャラを出していないが、ぼくは実はONE PIECEのサンジのような性格も持っていて、性や恋愛感情についてあけっぴろげに話すことをよくするのだ。
本当に引かれないように気をつけてはいるが、仲間内ではけっこうな変態キャラになってしまっている(なぜサンジっぽく振る舞うのかにはちゃんと哲学があるのだけど、ここでは割愛する)。
そんなこんなでぼくには何重ものマイナスイメージがついており、そのため、頭の良いことを言っても「どうせバカが(変態が)言ってることなんだから……」というバイアスが働いてしまって相手にされないのだろうと思う。
ここで多くの人は、「都合よく考えすぎでしょ。バイアスがかかってるんじゃなくて本当にバカなだけなんじゃないの?」と思うだろう。
だが、おそらくそうではないという根拠がある。
冒頭で「『ほとんど』誰にも認められてこなかった」と言ったが、ぼくの思考力を認めてくれた数少ない人のことを考えてみると、ある共通点が見つかった。
ほとんどみんな、ぼくが賢そうに振る舞うコミュニティで出会った人たちなのだ。
たとえばアルバイト先の個別指導塾の生徒がそうだった。講師として働いている塾ではぼくは普段よりずっと真面目に大人っぽく振る舞うし、ボケることも少ない。そのため生徒には、「この人バカなんじゃないか?」というバイアスが働いていないのだ。
ぼくの能力は、ある時突然証明された。
2回目の授業の時、ぼくがとあるロジカルな話をしていたら、生徒がなんとこう言ったのだ。
「メモっていいですか?」
これはとてつもない衝撃だった。
それまで誰もぼくの言葉に価値を見出さなかったのに、その生徒は真剣に聴いてくれたどころか、カバンからわざわざノートを取り出してぼくの言葉をメモしてくれたのである。
振る舞い方や立場が違うだけで、言葉の捉えられ方というのはこんなにも違うものかと思った。
(ちなみに帰ってから母にこの話をしたら、「アンタなんかの話に感銘受けるなんて、その生徒おかしいんじゃないの?」と笑われた)
他にも、頭のいい人たちが集まるイベントで出会った人やレンタル話し相手の依頼人など、ぼくの普段のボケキャラや変態キャラを知らない人たちは大抵、驚くほど熱心にぼくの話を聴いてくれた。
これらの経験から、ぼくはこういう結論を導いた。
人は「『何を』言っているか」よりも「『誰が』言っているか」を遥かに重視する生き物なのだ
と。
バカなイメージがある人がどんなに頭の良いことを言っても相手にされないし、人気者がそれっぽいことを言えば、たとえそれがペラペラな言葉でも「深いですね!」となるということである。
(ちなみに「変態っぽさ」も、成功した人が出す分には「ギャップがステキ」となる)
理不尽極まりないし全くもって納得できないが、悔しいことにこれが現実らしい。
ならどうすればいいのか? 答えは1つだ。
偉くなればいいのである。
何でもいいから圧倒的な成功を収めて偉くなればいい。そうすれば、誰もぼくをナメなくなる。ぼくの言葉をちゃんと聴いてくれる。今まで軽くあしらわれてきた話と同じ話をしても、今度は重く受け止めてくれる。
今ぼくがやるべきことは語ることではない。とにかく成功することだ。自分の人生に勝つことだ。100の言葉ではなく1つの成果が人を黙らせる。
そう気づいたから、ぼくは喋ることをやめた。この2年近く、ぼくは家族にも友達にも自分の考えを語ることをやめ、ひたすら成功それのみを目指してきた。そしてとうとう、あと一歩でそれを掴めるところまできた。
ここからぼくは、成功の階段を爆速で駆け上がっていく。破竹の勢いで有名になっていく。
ぼくの頭の良さを分かっていなかった人は仰天するだろう。「なんであいつが!?何かの間違いじゃないのか!?」と。
しかし、何の間違いでもない。ぼくは実力で成り上がる。間違っていたのは自分たちの認識だったと、みんなどこかで気がつくことになるだろう。
その時はどうか、土下座でもしながら謝ってほしい。
「お見それしましたァ!あなたがバカだと思っていた我々がバカでしたァァ!!!」と。
ぼくはそれを笑って許そうと思う。
「いいんだよ。ただ、これに懲りたら、もう誰に対してもバイアスはかけないでほしい。誰が言うかに限らず、その言葉そのものを正しく評価できる人になってほしい。ぼくも全ての人に対してそうするよう心がけるから」
と。
マジでお願いします、土下座。そうしないとぼくのこれまでの怨念が浮かばれないので。本当に。
ぼくの「人生の勝算」
ぼくは今月、自分の人生に勝つ。
具体的にはフォロワーを1000人以上にし、大勢の人から注目される人になる。
ぼくの人生のゴールはもっとずっと先にあるからめちゃくちゃ小さな一歩だけど、ひとまず無名ではなくなるのだから、これはぼくの人生における最初の勝利だと言えるだろう。
これまでぼくは、ずっと負けっぱなしだった。
有名になろうと色々な挑戦をしてきたけど、どれも上手くいかず燻り続けた。
「まだ歯車が噛み合っていないだけだ。ぼくは必ず大物になる」
何度もそう言ったけど、周りは誰も取り合わなかった。
友達には「バカじゃないの?」と笑われ、
先生には「いい加減現実を見ろ」と怒られ、
親には「あなたは凡人なのよ」と泣かれた。
誰1人、ぼくの可能性を信じなかった。
でも、ぼくはぼくを信じた。
世界中でたった1人、ぼくだけはぼくのことを信じ続けた。
成功してから偉そうなことを言うのは簡単だから、成功してしまう一歩前の今、「自分を信じることの大切さ」を語ろう。
ぼくが思うに、成功という軸において「自分を信じる」という行為には2つある。
1つは、「過程がどうあろうと自分はいつか必ず成功を掴める」ということを信じること。
見当違いの考えをしていようが、無能だろうが、大失敗をしようが、それが過程である以上最終的な成功とは何の関係もない。
ぼくは夢ができてから実に6年間なんの成功も掴めなかったが、「一生成功できないんじゃないか?」と疑ったことは今日まで一瞬もなかった。
もう1つは、「自分の選んだ道を進み続ければ成功できる」ということを信じること。
こちらは少々複雑だ。
ほとんどの分野において、成功への道は無数にある。
最初はどの道を進めばいいか分からないだろうから、あちこち色んな道を試してみればいい。
そうしていればその内、「これだ!」という道が見つかる筈だ。そうしたらその道を信じて全力で突き進もう。
ただしこちらの「信じる」は、盲目的にやってはいけない。
「正しいと思っていた道がやっぱり間違っていた」ということは往々にしてあるから、「もしかしたらこの道は間違ってるんじゃないか?」と何度も疑わなくてはいけない。
だけど、疑って疑って、それでもやっぱり正しいと思えるなら、別の道の方がいいと明らかに分かるまで、あるいは行き止まりにぶつかるまで、その道を信じて突き進まなくてはいけない。
ぼくは色んな道を試した末に、この「レンタル話し相手」という道にたどり着いた。
この道は100%成功する自信がある。いや、いつも「100%成功する」と言って失敗してるんだけど、今度こそは絶対だ。
「話すこと」「文章を書くこと」「論理的に考えること」というぼくの強みを全てを活かせるし、ニーズが無数にあるし、時流にも乗っている。これで成功しないなんてあり得ない。
だけど周囲の反応は相変わらず悪く、この活動が上手くいくとは誰も思っていない。
ぼくの強みも考えも、誰1人として認めていないのだ。
こうなると普通であれば、自信を失ってしまうだろう。
「ぼくの強みって大したことないんだ」とか「考えが間違ってたんだ」とか思って、その道を進むのをやめてしまうだろう。
何故ならぼくたちは、人からの意見や評価はきちんと受け止めるべきで、そうしないのは頑固で愚かだと教えられているからだ。
でもぼくは、必ずしもそうだとは思わない。
何故なら、その「他者の意見や評価」が間違っている可能性もまた、往々にしてあるからだ。
だから、その評価が本当に正しいのかを冷静に客観的に吟味する必要がある。
ぼくはそうした結果、「周囲の評価はほぼ正しくない」という結論に行き着いた。
誰もぼくに期待しないのは「ぼくがナメられている上にズレているから」であり、ぼくの強みが弱いわけでも、考えが間違っているわけでもないと、あくまで冷静に判断した。
だから、評価によってぼくの行動を変えるのではなく、ぼくの行動によって評価を変えてみせようと思った。
結果を出しさえすれば誰もぼくをナメなくなるし、ぼくのズレが正しかったことになる筈だ。
(ただ、どうか誤解しないで欲しいのだけど、ぼくの周囲の人の眼力が際立って劣っているわけではない。みんな普通の良心的な人々だ。
他者の評価なんてぼくだってたくさん間違えているだろう。つまり、「人なんてそんなもん」ということを言いたいのだ)
人からの評価なんて一切気にしなくていいわけではない。自分の能力や考えを盲目的に信じるべきとも思わない。
基本的に評価は参考にした方がいいし、最終的に成功すること以外は都度疑うべきだ。
しかし、
【本当は高いポテンシャルを持っているにも関わらず、それが世間と噛み合っていなかったりナメられているために不当な評価を受けている場合】というものは存在する。
【本当は正しいのに、時代が追いついていないせいで間違っているとみなされる考え】も存在する。
両方、世間で思われているより遥かに多くあるとぼくは思っている。
ぼくは成功者の人生譚を数多く見聞きし、そういう事例が山のようにあることを知っていたから、どれだけ低い評価を受けても自分の道を信じることができた。
そういう訳だから、誰にも理解されないからといって自信を失う必要はない。だけど、「オレのことを理解できないなんて!」と文句を言っていても仕方がない。
こういう心意気が必要だ。
そう、結局は自分次第なのだ。
自分を認めさせたいなら自分が頑張るしかない。ぼくの場合は口でどうこう言うのではなく、とにかく結果を出すしかなかった。
結果を出せなければ、自分は永遠に間違っているままだ。自分の正しさを、力を理解してもらいたいなら勝つしかない。
ぼくは膨大な試行錯誤と行動の末にようやく、自分が勝てる道を見つけた。
今月ぼくは、自分がただの夢追いの少年ではないことを、生まれて初めて自分以外の人々に証明できるだろう。
全ての夢追い人に、ぼくはこう伝えたい。
疑うべきことは徹底的に疑え。
だけど信じるべきことは、周囲の誰1人として信じなくても、自分だけは信じ続けよう。
勝ちさえすればあなたのことを、みんなが認めるようになるから。
「与えられた課題に取り組む習慣」を身につけるために宿題をするべきか?
今話題の不登校問題に対して自分の意見を言った動画が軽くバズりました!
※要約すると
「学校で学べることは学校の外でも学ぶことができるし高卒認定試験を受ければ学歴も好きな時に手に入れることができるから、学校に行かなくても人生はどうとでもなるよ」
ということを言っています。
バズったおかげでコメントがめちゃくちゃ来てここ数日はその返信にずっと追われているのですが、その中でこんな意見がありました。
「この動画の意見には概ね賛成なのですが、『習慣』の問題が気になります。子どもに宿題を課す理由には、「出された課題をコンスタントに提出する習慣を身につけさせるため」というのが大きいはずです。子どもの時にその習慣を身につけていないと、大人になってから高卒認定試験の勉強をしようと思ってもかなり苦労するのではないでしょうか?」
これは動画で全く語っていませんでしたしあまり考えてもいなかったので、とても良い視点だなと思いました!
「知識」は後からいくらでも得ることができますが、「習慣」は小さい頃にほぼ出来上がり大人になってから変えるのは極めて難しいものなので、確かに「どうとでもなる」とは言えないですね。
数日かけてこの問題について考えてみたところ説明がかなり長くなってしまい、また一般的にも伝えたいことなので、このブログでお話します!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まず、不登校の人には大きく分けて、
①いじめなどによる「気力低下タイプ」
②型にはまることを嫌う「型破りタイプ」
という2つのタイプがあるとぼくは思っています。
「気力低下タイプ」は学校に行かないことに信念を持っているわけではないので、休養や転校によって気力が回復すれば学校に行くし勉強もするでしょう。逆に言えば辛い状況にあるうちは宿題をすることなんてできないでしょうから、気力の回復を待つしかありません。
「型破りタイプ」は(ぼくもこのタイプなのでよく分かるのですが)周りに合わせることや興味のないものを強制されることを極端に嫌います。「この型は何のためにあるの?」と考えてしまい、様々な型にはめようとしてくる学校にストレスを感じるのです。
ゆたぼん君のような型破りタイプの子は、宿題を課されるとこう思います。
「これが一体なんの役に立つんだ? 何のためにやるのか分からないものに、どうしてみんなは言われるがまま取り組めるんだ?」
それで、例の「ロボットに見えた」発言が出たのでしょう(ちなみにゆたぼん君のお父さんのブログによると、ゆたぼん君は後に「「オレがそう見えただけでその子たちも何かで悩んでいると思う」と言っているそうです)。
こう思ってしまうと、もう宿題には取り組めません。普通の人なら「よく分からないけどとりあえずやっとくか」と折り合いをつけるところを、「納得できないものはやらない」となるのです。
ワガママだと思うでしょうか? たぶん多くの人はそう思うでしょう。
何故なら、「出された課題にコンスタントに取り組む習慣を身につけるために宿題はやらなければならない」と思っているからです。
確かに「出された課題に取り組む」という力は生きていく上で非常に重要ですが、ゆたぼん君は実は「課題」をやりたくなかったわけではありません。「何故やるのか分からない課題」をやりたくなかったのです。
ここでまた多くの人は、「やる意味は後で分かるよ。大人になってから分かるのじゃ遅いから、子どものうちはよく分からなくてもやらなきゃいけないんだよ」
と思うでしょう。
でも、そうとも言い切れないみたいなんです。
今、学校の勉強や宿題の効用について様々な人が疑問の声を上げ始めています。
「学校の勉強は実生活にあまり役に立たない」「分からないことがあればスマホで調べればいい」「学校外のプライベートの時間にまで勉強を強制させるなんておかしい」「宿題は成績向上に繋がらない」……。
宿題への否定意見についてはこの記事が分かりやすいので、もし余裕があれば目を通してみてください。
「宿題は本当に無駄であるか」ということについては、ぼくは今ここでは言及しません。あまりにも長くなってしまうし、少なくとも現時点ではその白黒をつけなくてもぼくの言いたいことは伝えられるからです。
ひとまず「そういう意見もある」ぐらいの認識をしていただければと思います。
さて、ゆたぼん君は先ほどの記事並みに深い思考の上で宿題を放棄したのでしょうか?
まだ10歳の子どもですから、もちろんそんなわけはないと思います。
でも、「何の意味があるんだろう?」とは思ったのでしょう。それはおそらく、「宿題をしなさい」と言った担任の先生が、宿題をする意味については教えなかったからです。
教えなかったのならば訊けばいいじゃないかと思うかもしれませんね。ゆたぼん君のお父さんのブログでその点についての記述はまだ見つけていないので、そこは分かりません。
でも、もしその質問をしたとしても、説得力のある答えを言える先生は多くないだろうと思います。
ぼくは子どもの時、「学校の勉強って何のためにするんですか?」と多くの大人に訊いてきましたが、納得のいく答えを得られたことはありませんでしたから。
話を戻します。
とにかくゆたぼん君は、「何故やるのか分からない課題」をやりたくなかった。これは裏を返せば、「何故やるのか分かる課題」にはきちんと取り組むということです。
だから、宿題を放棄したまま大人になり壁にぶつかってやはり学歴が欲しくなった時、問題は特に起こらないと思っています。何故ならその時は、勉強に意味を見出しているだろうからです。
勉強そのものに深い関心を持っているかもしれませんし、そうはなっていなかったとしても、「良い仕事に就くためには学歴が必要だ」と思ってさえいれば、その過程に必要な勉強を「やらなければならないもの」だと認識できるのです。
欠落しているノウハウは、家庭教師を雇ったり、自分で本を読んだりして学ぶことができるでしょう。
型破りタイプには、「自分が興味を持ったものや意味を見出したものには一生懸命取り組める」という特徴があります。
そして、「自分で『やるぞ!』と決めたことに懸命に取り組む」習慣は(ゆたぼん君の場合はYouTubeや講演会など)、むしろ人並み以上に身についているのです。
だから、1度その気になりさえすれば周囲も驚くほどのスピードで勉強を進められるだろうと思います。
さて、こうなると次は、
「じゃあ勉強はそうだとして、その先の仕事はどうするの? 仕事では『何故やるのか分からないこと』や『やりたくないこと』をやらなきゃいけないじゃん!」
と思うでしょう。
おっしゃる通りです。誰かに雇われる以上、やりたいことだけをやるということはできません。
でも、「何故やるのか分からないこと」や「やりたくないこと」の割合が少ない職場というのはあります。そういった職場を見つけて、ガマンするべきところを少しだけガマンしながら、やりたい仕事に精を出せばいいのです。
やりたいことだけで生きていけるほど何かに突き抜けてはいない中途半端な型破りタイプはそれくらいの折り合いをつけることができるし、全く折り合いがつけられないほど極端な型破りタイプはきっと何かに突き抜けているので、誰かに雇われずに自分の力でお金を稼いでいくことができるだろうと思います。
以上の理由から、「宿題を提出するという習慣を子どものうちに身につけていなければ大人になってから苦労するのではないか」という心配はあまりしなくても良いとぼくは考えています。
また、実を言えば、「宿題を提出するという習慣」は逆にマイナスに働く場合もあるとも思うのです。
宿題には「何故やるのか(ほとんどの人は)納得のいく理由を説明されていない」「強制させられている」という側面があります。
そのため宿題をやることには、「何故やるのか分からないことに疑問を挟まずに取り組む習慣」や「受動的に物事に取り組む習慣」が身についてしまう恐れがあると思うのです。
宿題だけではありません。
基本的に一方通行の授業、実生活にあまり役に立たない知識、時代遅れの校則など、学校にはその恐れを誘発するものがたくさんあります。
たぶんこれには多くの人が、「そんな穿った見方をするなんて!」と強い反発を感じるでしょう。
でも、「『何故やるのか?』と疑問を挟める人」や「能動的に物事に取り組める人」が実際どれほどいるでしょうか?
世の中には、
命じている人も従っている人も「やらなきゃいけないから」と思考停止してしまっている無意味なルールや仕事があります。
解決方法を調べれば済むことなのに調べることをせず、いつまでも悩みを抱えたままの人がいます。
ダイエットをしようと決めても、毎日ノルマを決めて自分のペース配分で取り組み続けられない人がいます。
これらには、「自分で考え行動する力」を身につけさせることに重きを置かず、むしろその力を奪いかねない教育を行っている、学校に大きな責任があると思うのです。
もちろん、全てがそうであるわけでは決してありません。
学校という枠の中で、自ら考え行動することを教えている教師や、勉強に確固たる意味を見出して励んでいる生徒もいるでしょう。
でも、全体で見るとそういう人はかなり少ないのではないでしょうか?
学校に行かない人にも、学校に行っている人にも考える余地があります。大事なのはバランスです。
【現状で必要とされている型にある程度はまりつつ、同時に、自分で考え行動する力を養っていく】
これが理想的な生き方だとぼくは思います。
ゆたぼん君は明らかに後者の方に行きすぎですが、彼は型破りタイプですからたぶんあまり問題はないし、前者の方に偏重している現代社会へのカウンターとしては有意義な存在ではないでしょうか。
もっとも、ゆたぼん君親子には怪しく見える点や足りない主張が多すぎて(最近はお父さんが必要な補足をしてくれています)、狙いとは逆方向に世論が動いてしまっていますが……。
でもこうやって、多くの人が今まで信じていた常識を見つめ直し、考えを深め合っていくのはいいことですね。
当然ぼくにも足りない視点や間違っている考えがある筈ですから、疑問や反論があったらなんでも遠慮なく言ってください。
こんなに長い文章を最後まで読んでくださりありがとうございました!
「我々が勝ち取りたいのは自由である」 戦う者たちの戯曲『僕たちの好きだった革命』
読んだだけで思わず革命をしたくなってしまうアツい戯曲、『僕たちの好きだった革命』を紹介したい。
出版社:晩成書房
著者:鴻上尚史氏
※ネタバレがあるのでそれでも良いという人だけ読んでほしい。
このクラスはどんなことを戦っているんだ?
現代の高校のとあるクラスで、担任の先生が新しいクラスメイトとして40代のおっさんである「山崎」を紹介する。
彼は30年前の学生運動で激しく活動していた最中、機動隊のガス銃に撃たれ、つい先日まで意識不明のまま眠っていたのだった。
復学早々、山崎はクラスメイトに向かってこんなセリフを連発する。
「このクラスは今、どんなことを戦っているんだ?」
「君はクラス委員なのに、世界に対する意見がないのか?」
「彼女は沈黙することで服装検査に抗議しているんだ。思想統制と表裏一体となった服装検査への抗議として、不服従を貫いているんだ!」
みんな「はあ?」となって誰も相手にしないのだが、ある時、山崎の言葉が響くことになる事件が起きる。
文化祭で山崎のいるクラスはとあるラップミュージシャンを呼ぶ予定だったのだが、そのミュージシャンの歌詞が問題でCDが発売禁止になっていることを知った学校側が、彼を文化祭に呼ぶことを禁止したのだ。
「自主的な文化祭を勝ち取ろう」という山崎の呼びかけに数人の生徒が応じたのをきっかけに、この学校での革命闘争が始まったのだった。
思考停止の教師と諦めない山崎
初めは小さい輪だったのがだんだん大きくなっていき、文化祭に加藤鷹を呼びたいという生徒が出てきたり、例のラップミュージシャンが駆けつけてくれたりし、ものすごい勢いで革命の熱が高まっていく。
教師達は必死に反対するのだが、説得力が微塵もない。
グラウンドで「第一回自主運営文化祭要求集会」をやっている時のシーンが特に滑稽である。
「お前ら全員退学だ!」
「どうしてグラウンドにいるだけで退学なんですか!」
「グラウンドにいるから退学なんだ!」
「意味分かんない!」
「人生に意味なんてないの!」
思わず「アホ過ぎるだろ」と呆れてしまうが、このレベルの無思考で生徒を縛っている教師は実際にたくさんいるだろう。
ある時ついに教師側は強硬な手段を取り、山崎たちを体育館に閉じ込めてしまう。
それでも諦めず革命の準備を進める山崎に、「どうしてそんなに頑張るの?」と仲間が問いかけるシーンが最高だ。
「どうして? 理解できない」
「きっといい未来になるって信じてるからさ」
「ほんとにいい未来になる?」
「(その質問に驚いたように)勝ち取るんだよ」
なぜ戦うのか
「たかが高校の文化祭のためにそこまでやらなくても」と思うかもしれない。だが山崎たちは、もっと大きなものの為に戦っているのだ。
あるとき山崎はこんなアジテーションをする。
「諸君! 我々が実現しようと思い、勝ち取ろうとしているのは、単なる文化祭ではない! それは我々の自由であり、未来である。一体我々は、不合理な現実をただ一度でも自らの手で変革し得たことがあったのか! 我々が真に問題とするのは文化祭の検閲制度だけではなく、我々にとって真の文化とは何かということなのだ!!」
いま話題になっている、生徒の髪色問題も同じだろう。
「髪を規制されるぐらい大したことないじゃん」と思う人もいるかもしれないが、問題は「茶髪を黒髪にさせられる」ことではなく、「無意味で理不尽な決まりを押し付けられる」ことなのだ。
そして大事なのはオシャレをすることではなく、自らの手で自由を勝ち取ることなのだ。
関心があるなら戦おう
この『僕たちの好きだった革命』を書いた鴻上尚史さんはTwitterで、今回の「無意味な校則問題」に猛烈に怒り、意見を発信している。あなたもこの問題に関心があるなら、臆さず声をあげてみよう。
別に反対意見だっていい。山崎も「生徒のみんなも、機動隊員のみんなも、自分がいいと思うことを信じて欲しい」と言っている。
思考停止のまま自分の考えを信じるのは危険だが、本当にそれが「自分がいいと思うこと」なのであれば、諦めずに信じて堂々と主張すればいいのだ。
山崎はこうも言っている。
「試行錯誤を続けながら、人間はきっと進歩するんだ」
互いが信じることをぶつけ合うことで、本当の正しさがきっと見えてくる筈だ。
人の苦しみを共有せずにいられない男達の奮闘記 『囚人リク』
ほとんど誰もが、本当はまっすぐ生きたいと思っている。
だけどこの世界はあまりにも複雑で困難だから、次第に曲がることを覚え、捻くれたり腐ったりしてしまうのだ。
そんなのしょうがないじゃないかと思う部分もあるんだけど、それでもこの作品を読めば、「もう少しまっすぐに生きてみたいな」という気になってくるかもしれない。
そんなパワーを持った激アツ漫画、『囚人リク』を紹介しよう。
概要
・連載雑誌:週刊少年チャンピオン
・巻数:全38巻(完結済)
・作者:瀬口忍先生
<ひとことで言うとこんな話>
無実の罪で刑務所に入れられた少年リクがそのまっすぐな人柄で囚人を次々と味方につけ、脱獄不可能と言われた刑務所を脱獄する話
<性質>
熱い,ストレート,心理描写や演出が巧み,絵が上手い,暴力描写がやや激しい,色気ほぼナシ,なるほど感がすごい,少年漫画と青年漫画の間
<こんな人にオススメ>
くじけそうな人,利他心の強い人,いつか脱獄してみたい人(男なら誰でも1度は脱獄したいと夢見たことがある筈だ。ちなみにぼくは友達にその夢を話したら引かれた)
最初からめちゃアツい
13歳の少年リクは孤児として逞しく生きていたが、ある日、育ての親であり精神的支柱でもあった「おじさん」が極悪人に殺されてしまう。
その殺人の罪を着せられたリクは懲役30年の判決を受けて脱獄不可能と言われる刑務所にぶち込まれるのだが、そこは秩序の崩壊した地獄のような場所だった。リクは入所早々、殴られたり蹴られたりヤスリで指を削られたりと散々な目に遭わされてしまう。
しかしそれでも、リクは持ち前のまっすぐな気持ちを捨てなかった。自分を虐めた弱い囚人を強い囚人の暴力から庇い、その強い囚人を看守の暴力から庇うのだ。
そして、この歪みまくった世界では絶対に誰も口にしないであろうドストレートな言葉をぶつける。
これによって「強い囚人」はリクを少し認めるものの、「正々堂々タイマンで潰してやるぜ」と言ってやっぱりボコボコにする。
しかし、どんなにボロボロになってもリクは立ち上がる。大好きだったおじさんの言葉を強烈に信じているからだ。
この度を超えた意地がついに通り、リクは多くの囚人に認められる様になるのだ。
リクのこの、過剰とも言えるほどのまっすぐさが本当に気持ちいい。普通だったらつい曲げてしまう様なことを、地獄のような場所でも1ミリも曲げずに通す姿に強く胸を打たれてしまう。
人の苦しみを共有するということ
今話した要素だけでも本当に素晴らしいのだけど、この漫画の最も凄い部分は実は別のところにあるとぼくは思っている。
それは、「登場人物がやたらと人の苦しみを共有しようとするところ」だ。
どういうことか? 1つシーンを挙げよう。
ある日、とある凶暴囚人に襲われてリクのチームのメンバーが全員ボコボコにされてしまう。仲間の敵討ちのためにその凶暴囚人に戦いを挑んだリクだったが、一瞬で返り討ちに遭い、右腕の骨を折られた挙句に倒れてしまった。
するとそれまで伸びていた仲間が立ち上がり、突然自分の腕を柱にぶつけ始めるのだ。
なんと、右腕を折られたリクを応援するために自分の腕を折ろうとしていたのである。
これは本当に珠玉の名シーンだと思う。
ここで描かれているのは、暴力と基本的に無縁なぼくたちにも通ずるテーマだ。
親しい人が辛い目に遭っていると多くの人が力になろうとするが、そのとき両者の間には大抵の場合、「辛い目に遭っている者と遭っていない者」という格差が生じてしまっている。
その格差を縮めるためにぼくたちは「想像する」という行為で相手の苦しみを心の中で共有しようとするのだけど、想像力にはどうしても限界がある。
だから力になってもらっている側は「ありがとう」と言いながら、心のどこかでこう思ってしまうのだ。
「お前はいいよな、この苦しみとは無縁なんだから。どれだけ親身になったって自分の本当の辛さは分からないよ」
と。
捻くれていると思うかもしれないが、人間である以上、こうした思いを完全に無くすことはできないだろう。
「力になる側」の多くはその感情について理解しているが、だからと言ってどうすることもできないではないか。視覚障害者の気持ちを理解するために、自分の目を潰すわけにはいかない。
心の中で寄り添うことはできても、実際に身を切ることはできないのだ。
だがこの漫画の登場人物は違った。心でだけでなく、体でも苦しみを共有せずにはいられなかったのだ。相手と同じ立場に身を置かずに応援することを、自分自身に許すことができなかったのだ。
こういう描写を、ぼくはこの漫画で初めて見た。
一生懸命人助けをするキャラクターは他の漫画にもたくさんいるが、相手と同じ苦しみを共有するために自らを傷つけるキャラクターはまずいないだろう。
1人いるだけでも凄いのに、こんな「どアホゥ」がこの漫画にはたくさん出てくる。そこが、ぼくが『囚人リク』を別格の漫画だと思う所以なのだ。
(ちなみに「粉骨砕身した友を〜」のコマでリクが右目に包帯を巻いているのが分かると思うが、これは実は怪我をしているわけではない。戦っているうちに凶暴囚人の右目が義眼であることが分かったので、右目が見えないという気持ちを味わうため、相手と同じ条件で戦うために自ら包帯を巻いたのだ。
それも、すでに半殺しにされていたのにである。
リク……お前はどこまで自分の正義に妥協しないんだよ……!!)
“革命の闘士”田中一郎
この「相手の苦しみを共有する」ということを最も激しくやっている男を紹介したい。同じ刑務所に収監されている傷だらけの囚人、田中一郎だ。
彼は“革命の闘士”として国に抗った罪で刑務所に入れられてしまったのだが、元々は裕福な家庭に生まれた、革命とは無縁の青年だった。
勉学に励んで弁護士資格を取り、弁護士として弱者のために活動していたある日、大規模な天災が起きて東京が壊滅してしまう。
全ての人々を救う余裕はないと判断した政府はなんと、貧しい者を切り捨てる政策を取ることに決める。壊滅した区域と外の区域との間に壁を作り、一定以上の収入がある者にだけ壁の外に出ることを許可し、その他の者は永遠に閉じ込めておくことにしたのだ。
その収入条件を満たしている田中家はみんなニコニコしながら通用門まで歩いていくのだが、残された人々のことが気になる一郎は、すぐ戻ると家族に約束して引き返してしまう。
そして、弁護士としてよく力になっていたおばあさんのところに向かい、こう言葉を言い残す。
「私は今日、壁の外へ出ます。ですが壁の外からであろうと私は必ず、法という武器でこの惨状を救うべく戦います」
すると、そのおばあさんにこう言われるのだ。
この言葉が、田中の胸の中で何度も響く。
全て分かっている。それでも……
家族や恋人は、悪い人たちではなかった。
貧しい人々に同情や関心を寄せることこそしなかったが、人並みの愛情を持った優しい人々だった。彼らと共に生きていくという、ごく当たり前の選択を責める人など誰もいない。身近にいる大切な人を守りながら、同時に遠くの貧しい人を助ける努力をすればいいではないか。
だが、田中にはどうしてもそれができなかった。自分だけが苦しみと無縁の場所にいるという安息に耐えられなかったのだ。
恋人からプレゼントされた高級腕時計を引きちぎり、すぐ戻るという家族との約束を破り、田中は革命の戦士となることを決意する。
この並外れた正義感と類稀なる感性を持つ田中には、実はもう1つとてつもないエピソードがある。全身についている傷のことだ。
あれらは実は、革命の戦いでできた傷ではない。守れなかった命を忘れないために、自分で刻み込んだ傷なのだ。
ここまで人の痛みを引き受けられる人がいるだろうか? これほど人のことを思える人がいるだろうか?
世の中にも身の回りにも、とても想像が及ばないほど悲惨な目に遭っている人が大勢いる。にもかかわらずぼくたちが平気でいられるのは、結局、自分と他人との間に明確な線を引いているからだろう。
同情はするし力も貸すが、究極的には自分と他人は関係ないと思えるから、よほど大切な人でない限り、他人がどれだけ不幸になっても自分まで傷つくことはないのだ。
そう、今「よほど大切な人でない限り」と言ったように、本当に大切な人が辛い目に遭っていたら、ぼくたちだって自分ごとのように痛みを感じることはある。
だが田中は、家族や恋人ほど親しいわけではない他人の痛みまで自分の痛みのように感じている。そこが普通の人と一線を画している点なのだ。
そして、相手の痛みを実際に自分の身に引き受けるという尋常ならざる勇気に、思わず感嘆してしまうのだ。
ぼくは、田中一郎が大好きだ。
完全に苦しみを共有する必要はない
漫画の紹介なのに持論を持ち出して申し訳ないが、これだけ「苦しみを共有すること」を絶賛していると、「そうしなきゃダメなわけ?」と思う人がいるかもしれないので補足させて欲しい。
作者の考えではなくあくまでぼくの考えだから参考程度に聞いて欲しいのだが、ぼくは、「完全に」苦しみを共有する必要はないと思う。
想像することで「心の中で」苦しみを共有することは大事だと思うけど、体に傷をつけたり社会的地位を捨てたりするのは、流石にしなくていいだろう。先ほどの例になるが、視覚障害者を助けるために自分の目を潰す必要はないのだ。
だが、どうしても辛い目に遭っている人の気持ちを分かりたいとか、相手の苦しみを引き受けなければ逆に自分の心が辛いとか感じる人は、一体どうすればいいのか?
じっくり考えてみたのだけど、「相手と同じ立場を『期間限定で』体験する」というのがいいのではないかと思った。つまり、リクのように目に包帯を巻いてみればいいのだ。
(もちろん期間限定でも体験できない苦しみもたくさんあるが、それは想像力を目一杯駆使するしかない)
短期間では相手が受けてきた苦しみのほんの一部しか引き受けることはできないが、それでも少しも体験しないよりかは随分多くのことが分かる筈だ。
これが、現実的に他人に歩み寄れるギリギリのラインだろうと思う。
これは何も、苦しみを共有することに「無理があるから」という理由だけではない。田中自身も理解していたように、相手と同じ立場に立ち過ぎれば「逆に人助けが難しくなるから」という理由もある。田中は殺されても、一生刑務所暮らしでも全くおかしくなかったのだ。
「そうせずにはいられなかったから」田中は「向こう側」にいるという道を捨てたが、人を助けるには、やはりまず自分自身を大切にすることが大事なんじゃないだろうか。
自分のことを大切にしながら、できる範囲で人に歩み寄ればいいのだとぼくは思う。
どうか読んで欲しい
本当は巧みな心理描写やアッと驚くような脱獄ノウハウについても書きたいし、まだまだ素晴らしいシーンがたくさんあるのだけど、もうかなりの長文になってしまったので紹介はここまでにしようと思う。
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ここまでこのブログを読んでくれた人は是非読んでみてほしい。
思わず背筋を正してしまうような、強烈な読書体験ができる筈だ。